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ずるくない人の成功だけ認めるね。:大家さんと僕

少し前に、矢部太郎さんの漫画『大家さんと僕』を読んだ。何かを読んだり観たりしたあと、他の人はどんな感想を持ったのか調べるのが好きなので、やっぱりすぐに「大家さんと僕 感想」で検索をかけたのだった。

そこで引っかかったのが、矢部さんのお父さんが絵本作家だ、という情報をめぐってのあれこれだった。

ある人はTwitterで「父親が絵本作家なら、処女作が優れているのも当たり前だ、そういう血筋なんだから」という趣旨のことを呟いていた。 それに対して、「矢部さんの研究ノートはすごい。 大量の漫画の研究をして、 効果的な演出について調べて、記録して、分析して、出来上がったのがあの作品だ」というような、 編集者の方(だったろうか?)による、やわらかな反論のようなものが展開されていた。

これらのコメントを読んで、私は思った。
「いいものには、そのレベルにたどり着いた、納得の理由が必要なのだ」と。
矢部さんのお父さんが銀行員だったとしても、 矢部さんが事前準備ゼロで描き始めたのが『大家さんと僕』だったとしても。いいはずなのだ、 漫画が面白ければ。

でも、それでは満足しない人が大勢いる。

理由を求める気持ちの根っこにあるのは、たぶん、「ずるい」という思いだろう。
特別な血筋でもない、取り立てて努力もしていない、 そういう「純粋な」才能の持ち主が評価されること・成功することが、許せないのだ。「私と同じ条件なのに、なんで?」と。だから、先に「私とは違う」ことをたしかめておく。

私だってたぶん、幸福なゴッホの絵には、今ほど惹かれていないだろうと思う。「私には、ゴッホより降り積もる悲しみがないから、表現したいと切実に思えないのも、仕方ないよね」と思っておくのは、すごく、楽だ。


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