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祖父の印象

紙を折るとき、大したことではないのに一瞬躊躇してしまう。一度折り目をつけたら、もう二度と元のぴんとした紙には戻らなくなってしまうから。リセットすることは、できないから。
それでも、紙はまだいい。自分で折るか折らないか、決めることができる。心の準備をする時間が取れる。多くのことは、そうじゃない。気がついたら折り目がついていて、知らない間に元に戻せなくなっている。こちらの受け入れ体制が整えられていようがいまいが、お構いなしに向こう側にいってしまって、もう、帰ってくることはない。

例えば、私の祖父。彼はもう昔のようにツナ缶を肴に晩酌しない。いつからかは忘れてしまった、気がついたらそう変わっていたのだ。庭を訪れる鳩たちについて、ノートに記録をつけたりしない。昔は熱心に、それぞれの体の模様の違いなどを記したりしていたのに。ラジオ番組を録音したテープを、整理しない。頼まなくても何度もそらで語ってくれた「風の又三郎」だって、もう彼の声で聞くことはできない。
そう、祖父と言えば、「風の又三郎」だった。彼と妻、つまり私の祖母、が住む家には、「風の又三郎」の本が置いてあった(今もあるのだろうけれど、場所が定かでない)。たしか橙色の表紙だった。風というより炎みたいだな、と私は感じていた。

どっどど どどうど どどうど どどう

どんな話だったかは覚えていない。
ただこの冒頭は、覚えている。
おじいちゃん、ここを、毎回自慢げに口にしていたんだよなあ、という印象とともに。

会えなくなってしまった人がいたとする。何年も経ったとき、その人について残るのは、たぶん印象だと思う。
声色を忘れてしまっても、優しい声だった気がするってことは、たぶん忘れないでいられる。

こうして印象がたまっていった結果、老いた画家は抽象画に傾いていくのだろうか。

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