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出会った系であり、もう二度と会わない系である、男の人のこと

先日の林伸次さんのnoteを読んで、書きかけだったエッセイもどきのことを思い出した。

出会い方って設定装置と、花田奈々子さんの本のこと|林伸次 @bar_bossa|note(ノート)https://note.mu/bar_bossa/n/n19847cbfb1b0

私には墓まで持っていこうと思っているような秘密って、ほとんどない。腹においておくことが苦手なのだ。出会い系サイトに登録したことがあるってことすら、知人やら妹やらに話している。

クラスが同じだとか会社が同じだとかで出会う人たち、いわば、「自然に」出会える人たちなんてほんの少しなのに、そこだけで自分の人生を分ける人を決めるのって変だ。話したことないだけで気の合う人ってたくさんいるはずで、インターネットを使えばそういう人とつながれる可能性が上がる。出会うことってもっと楽しい可能性に満ちてるはずなのに、なんで「出会い系」って、後ろめたいイメージで、そればっかりで、世の中に広がってしまったんだろうか。ぶつぶつ言っているのは、もちろん、私も後ろめたさと戦いながらそんなサイトを使っていたからである。

恋人と別れてから何年も誰とも付き合えなかった私は、劣等感ではち切れそうだった。見た目も性格も悪いことはわかってるけど、というか、悪いと思うことにして傷つかないようにしてるけど、悪くないじゃん、って言ってくれる人に救われたかった。

気になる人を思ってわくわくするようなこともなかったから、せめて、予感が欲しかった。誰かと恋人になれるかもしれないという予感が。 私の憂鬱を棚上げしてくれる時間が持てるかもしれないという、予感が。

だから、出会い系サイトに登録してみることにした。恋人がほしい人が集まってるなら話が早いし、カタログみたいに、見た目が好きで、タバコを吸わなくて、趣味の合う人を選べそうだったから(私もカタログに載ることになるのに、このときは「選べる」ことにしか目がいかなかったのは、なぜだろう)。多少のリスクを背負っても、ドラマがある毎日を送るための一歩を踏み出したかったから。

妹には、「そういうサイトで会った人に殺されちゃったらどうするの?」と言われたけれど、 人を見る目には自信があったし、人がたくさんいるところ以外では絶対に会わない心づもりもあった。包丁は、人を殺すことにも料理するのにも使うことができる。人を殺せる可能性だけを見ていたら、永遠に料理はできないんだから。
私が本当に怖かったのは、友達に、こういうサイトを使う人間だと知られることだった。そこで、先に自ら信頼できる友達に打ち明けることで、罪悪感のガス抜きをしておいた(後日、このことをとても後悔したが、友達の方はきっともう覚えていないだろう)。

私は、この人いいかもしれない、と人を恋愛対象フォルダに入れるのが、得意だ。少女漫画を浴びるようにして育ったからかもしれない。メールに書いていた絵文字がかわいいから、と、遠隔授業で知り合った台湾人に恋をして、海の向こうまで会いに行ったこともある。サイトでも、気になる人を少しの労力で見つけることができた。

メッセージを送ったら、ちゃんと返事が来て、それから、毎日やり取りをするようになった。受信箱にその人の名前を見つける瞬間が好きだった。返信するとき、妙なハンドルネームを名乗ることから始めるのが恥ずかしかったけど、それ以外は、なるべく正直に自分の好むものについて書いた。

写真を送りあって私のわくわくは加速し、プライベートアドレスを教えあって、下の名前を明かして、私のわくわくは頂点に達した。

私はこの人への返信作成に1時間はかけているから、相手もそれくらいは私に時間を割いてくれているんだろう。そしてもうすぐ付き合うんだ。会う日を決めると、私はその先に待っているであろう、救われ終わった私の日々を想像し始めた。この顛末を、聞き上手の友人に話すところまで(最近気づいたけど、私は人生で何かを選ぶとき「あとで人に話したとき面白い方」にしていることが圧倒的に多い)。

当日、その人は不思議な眼鏡をかけてきた。ちょっと、がっかりした。そういうおしゃれなのかもな、と思って気持ちをあげようと努めた。顔はいいんだから。その人おすすめの、古民家カフェにいった。お店はよかった。会話は、よいと言えるほど弾まなかった。おかしい。
あんなにメールをやり取りしたのに。好むものの方向が同じに見えたのに。好きな絵の話や、苦手だと思うものの話、驚異の盛り上がりを見せていたのに、なぜなんだ。
明らかに今後付き合うって感じじゃなくて、でも、ここで別れたら私のかけてきた時間やわくわくした時間がみんなざーっと流れていってしまう気がして、友人おすすめの、クロワッサンの店にその人を連れていくことにした。よい気持ちでこの日を終わらせるための、私のわくわくした気持ちを延長するための、最高の一手だと、自信があった。

混雑した店内でやっと場所を見つけて腰を下ろすと、ごちゃごちゃしたお店ですね、とその人は言った。たぶん、共感してほしかったんだと思うけど、私ははっきり傷ついた。私は、自分の気に入ったものは、「自分」の一部になるのだと、今までぼんやりとしか知らなかったことを鮮やかに学んだ。うきうきした気持ちは急激に冷めて、クロワッサンの味もよくわからず、なんとか、笑顔っぽいものを維持することにエネルギーを費やした。

終始そんな調子だったから、いよいよだめだと思ったのに、帰宅したら「また機会があればお会いしましょう」というメールが来ていた。次に会ったら、もっとうまくできるかもしれない、と私は思った。それで、「ぜひ」とメールを返した。「いつがいいですか?」とも聞いた。

それきり、メールは返ってこなかった。

糸が切れた凧みたいに私の人生からぱちっと飛んでいったその人、あの眼鏡もたぶんもう二度と見ることはなくって、でも彼が勧めていた画家の作品を見るときに「あ」とはやっぱり思うから、不思議だ。

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