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【シャドバ】「遅延行為」に対する非難は正当化されるか?

RAGEのグランドファイナルという大舞台で「遅延行為」があり、物議を醸しました。配信コメントは荒れ、選手に対する非難の声が相次ぎました。
ここでは、この非難が正当なものであるのかについて、私なりに考えたことを書きます。
結論から言えば、この道徳的非難は正当化されません
(※私は「遅延行為」に不快感を覚えた者の1人で、感情としては「遅延行為」を非難したいと思っています。変化のない画面を眺める退屈な時間を過ごすことになったので当然です。しかしよく考えてみたらこの行為を正当な形で非難するのは難しいのかもしれない、と思い直してこれを書く次第です)

簡単に議論の流れを書いておきます。

⑴ ゲームのルールと道徳は切り離して考えるべきである
⑵ 選手には「行為が生じさせた結果がどれだけ良いか(あるいは悪いか)」に応じて道徳的非難が向けられるべきである
⑶ただし、その際には選手が有する道徳的な責任も考慮すべきである
⑷選手という役割に着目すべきである

議論の対象とする状況も簡略化して書いておきます。

①出場選手Wは1ターン90秒のプレイ時間を最大限に使うプレイヤーである
②Wは選択肢の少ない1ターン目、そして確実かつ単純に勝利できる場面でもほぼ①と同様のスタンスでプレイした
③大会の閉会が22時を過ぎて条例上観戦できない者が出た、観戦者がWの「遅延行為」に不快感を覚えたという主に2つの悪影響が生じた

①及び②と③の閉会時間の遅れの因果関係は判然としませんが、大まかにはこの通りで問題ないと思います。確認したい方はアーカイブを見てください。
なお、この記事を読まれている方は分かるでしょうが、①のようなスタンスの出場選手はおそらくこれまでにいませんでした(決まってマリガンの時間を全て使う人はいましたが)。

⑴ルールと道徳の峻別

まず明確に退けなければならないのは、「Wの行為はルールの範囲内なんだから問題はない」という主張です。これは論法として誤っています。なぜなら、ルールの範囲内でも悪いことはたくさんあるからです。行為がルールによって許容されていることは、行為に問題が全くないことを必ずしも導きません。
この主張では、法のような意味でのルールの問題と、善悪に関わる道徳の問題が混同されています。両者は切り離すべきです。私たちは「遅延行為」がゲームのルールに合致しているかを考えているわけではなく、道徳的に善いか悪いかを考えようとしています。ですから、先の主張は採用できません。

⑵「遅延行為」は道徳的に悪いのか?

では、道徳的に善いか悪いかに焦点を当てるとして、それをどのように考えるべきなのでしょうか。方針は様々ありますが、ここでは筆者の趣味で行為の結果に着目することにします(ここの議論に深入りすると記事が論文サイズになってしまいますから、このアプローチを取ることは前提させてください)。
行為の結果が善いものであれば、Wは善いことをしたことになります。逆に結果が悪ければ、Wは悪いことをしたことになります。
そして、Wが道徳的に善いことをしていたなら非難には値しません。Wが悪いことをしていたなら非難に値します。
非難に値するなら、Wに対する非難は正当化できます。
要するに、行為の善悪が非難の正当化可能性と対応します。
たとえば、あなたが友だちに嘘をついていたことがその友だちにバレ、そのことがキッカケで友だちが十年来のパートナーを失ったとしたら、(それがどういう嘘だったかはさておき)あなたは法的には罰せられないでしょうが友だちから道徳的な非難は受けるでしょうし、あなたはそれを受け止めなければならないでしょう。

では、Wの①及び②が与えた影響はどのようなものでしょうか。悪影響は③が説明しましたが、逆にそれを相殺する良い影響は何が考えられるでしょうか。
一つは、Wがその戦術によって実際に勝ち上がったことかもしれません。Wは大会2位で賞金を獲得しています。しかし、それは①と②があろうがなかろうが関係なく誰かが必ず経験することです。それに、①と②が大会2位にどれほど寄与したのか測る術もありません。もしかしたら、一般的な時間の使い方をしてもWは大会2位だったかもしれません。つまり、因果関係が不明です。
他に、Wの戦術が有効なものとしてシャドバプレイヤーに広まることは、界隈の発展という意味では有意義かもしれません。しかし、この戦術が(少なくともランクマッチでは)受け入れられることは考えられないですし、そもそも現状では「もし真似したら自分が非難されかねない」とプレイヤーたちは考えるでしょうから、界隈の発展という観点からも好影響があるとは言いがたいです。
なお、Wの戦術がそれ自体ゲームプレイとして有効なものであったかどうかは道徳的非難の問題と関わりがない(あるいは非常に薄い)と思われるので考慮しません。というのも、戦術の有効性を分析することは人々の今の不快感を和らげることには貢献するかもしれませんが、そもそも問題となっているのは事件当時の不快感の大きさであり、私たちは時間を遡って過去の不快感の大きさに干渉することはできないからです(戦術それ自体の有効性の観点については詳しくエントリを書かれた方がいるのでそちらを参照してください)。
とすると、Wの行為は結果として悪く、ゆえに道徳的に悪いと言えそうです。

⑶責任という論点

ただし、ここで加えて検討しなければならないことがあります。それは、Wが非難に値するほどの責任を有していたのかという点です。ここでいう責任は、「説明責任」や「監督責任」のような意味での責任、「〜〜をする責任」です。
ここでは「人はそれぞれの役割に応じた責任を有しており、それが果たせなかったときには非難を被る」という考え方を用いることにします。
つまり、先ほどの説明に対して、以下のように責任の説明が加わります。

Wの行為の結果は善か悪か?
→悪(……❶)
→Wに何らかの責任はあったか?
→あった
→Wはその責任をどの程度果たせなかったか?
→〇〇な程度(……❷)
→それだけの非難を負うべし (∵ ❶かつ❷)

⑷「出場選手」という役割に基づくとWはどのような責任を持つのか?

では、Wにはどのような責任があったのでしょうか。真っ先に考えられるのは、Wが「出場選手」という身分であったことです。出場選手がすべきことのうち中核にあるのは、大会ルールを遵守すること、大会運営に従うことです(本気で勝ち上がるかどうかといった点はWの勝手なので責任には入らないと思います)。
議論が生じるのは、ここに「RAGEはエンターテイメントである以上、その出場選手は観戦者を楽しませるようにすべき(あるいは不快にさせないようにすべき)という責任を含むか否かという点です。
もしこの責任を含むのだとすれば、Wは③により責任を果たせていないことになるので、非難が正当化されるでしょう。
ここは個々人の考え方が大きく分かれるところだと思います。
しかし私の考えでは、出場選手にはこの責任はありません。というのも、この責任は要求がやや大きいからです。シャドバの大会は多くの人が出場するので、個性も多様になります。すると間違いなく、この責任を果たせない人や、果たせるけれども心理的負担が大きいという人が生じるでしょう。たとえば、自他の境界が曖昧な人が人を楽しませようとした発言が、周りには煽りに受け取られてしまったり、面白いことを言おうとしてネットのおもちゃになってしまったりするかもしれません。また、不快にさせないという(楽しませなさいという責任に比べれば)弱い責任を採用したとしても、その責任を意識するあまり上手く喋れなかったり、楽しんでプレイできなくなったりする恐れがあります。こうしたことは稀なことではないでしょう。よって、出場選手全てにこの責任を持たせることは望ましくありません。

したがって、Wは非難を受けるに値するだけの責任を有していなかったので、Wに対する非難は正当化されない、というのが私の結論です。(それはそうとして私はたしかにWの遅延行為を不快に感じましたが、不快感はそれだけで善悪の根拠になるものではありません)

タイトルの問いには答えましたが、少しだけ、進んで話をしましょう。Wに向けられたような非難に値する可能性がある主体が存在するとすれば、それは大会運営です。運営には選手を監督する責任が間違いなくあり、Wは運営の指示に従わなければならないでしょうから、運営はWの行動をコントロールして閉会時刻が遅くならないように配慮したり、観戦者が不快に思わないような行動を促したりできたはずだからです。
しかし運営がそうしたコントロールを行わなかったのは、大会を円滑に進めるという大きな責任を果たそうとした結果でしょう。もしWの動きに介入したとして、それでWが負けたとすれば、それこそ大ごとになってしまいます。
よって、大会運営に対する非難も正当化されないというのが蛇足の意見になります。
ただし、あり得ないでしょうがプレイヤー全員がWと同様のスタンスを取るようになれば大会運営も時間的に危ういので、(大会を円滑に運営するという責任の範囲内において)次の開催までに何らかの予防措置をとる責任を大会運営やシャドウバース設計者は有しているとは考えるべきではないでしょうか。

参考文献
○瀧川裕英『国家の哲学——政治的責務から地球共和国へ』(東京大学出版会、2017年)。
○ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果関係』(相松慎也訳、岩波書店、2019年)。
○H. L. A. ハート『法の概念〔第3版〕』(長谷部恭男訳、筑摩書房、2014年)。
○ジェレミー・ベンサム『道徳および立法の諸原理序説 上下』(中山元訳、筑摩書房、2022年)。
○R. M. ヘア『道徳的に考えること』(内井惣七、山内友三郎監訳、勁草書房、1994年)。
○H. L. A. Hart, Punishment and Responsibility: essays in the philosophy of law (Oxford: Clarendon Press, 1970, c1968).
○Robert E. Goodin, Utilitarianism as a Public Philosophy (Cambridge; New York: Cambridge University Press, 1995).

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