勉強とは何を指してそう定義されるのか

http://takutsubu.dreamlog.jp/archives/2032883.html

勉強の定義

記事を読んで記事先の結論と同様に勉強は「特に役立つこともなく知的好奇心からくる知的欲求を満たすための行為」と考える。
「仕事のため」「何何のため」となればそれは勉強というより職業訓練の類に定義されると思う。
記事に関しては、大体は同意できる。

前はどうだったか

院生だったときは引き継ぎと言えど興味のある分野でのがそれは「修論」というノルマはあったものの問題提起、解決などの手法は自身で決めることができた。
結果的に国際学会で発表したり国内の学会で査読付き論文として提出できたり良い結果も出た。
けれどもそれは「こうありたい」という欲求が先立っていた訳では無く「気づいたらここまで来ていた」という感じだった。
もちろん土日関係なく執筆して、休日の誰もいない研究室で泣きながら修正したり、食べ物の味が分からなくなるまで追い込まれていたが、それでも「実績のため」とは微塵も無かった(余裕が無かっただけかもしれないが)。

苦痛と仲良くできる体質だったのかもしれない。

今はどうか

話がそれてしまったが、現状仕事で研究内容は役立ってない。
問題提起と解決のノウハウは十分に活用できているがそれまで。

きっと「勉強できない」のは「役立つものとして定義し、役立てないといけない」という前提があるからかもしない。

結論

役に立たなくてもいい。学ぶことが楽しければそれでいい。ゲーム戦略であれ、開発ノウハウであれ何であれ。役に立たなくても得ることが楽しいのであれば、きっと勉強は楽しく、能動的に行えると思う。

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