性同一性障がいの治し方

治し方というより、最近思いついた僕なりの症状とのお付き合いの仕方。

性別違和は現在は、「性の健康に関する状態」というカテゴリになっていて、自分の個性だと肯定できる人にとっては病気ではないが、脳の性転換状態に困り果ててる人にとっては障がいのままだと僕は思う。

脳の性転換についてはこちら。


僕なりのお薬は、仏教から。

「諦念」
諦めが大事
道理を知る

「中庸」
どちらにも片寄らない
無理しない・頑張りすぎない
でも楽に溺れない
バランスがとれた状態

「空」
モノゴトは、実物はあるけど、定義は相対的で流動的。

「真如」
あるがまま

「縁起」
意味付け
関係性により世界が成り立ってる

るなの場合は…

諦念
ftmの僕は、体が女の子なのは、諦める。
僕の体は、女の子の体なんだな、と道理を知る。

治療を進める場合も
どこかで諦念が必要になる。
(女の子の体と闘っても疲れちゃう)

中庸
程々ということで、頑張りすぎない。
ジェンダーのこだわりから一旦離れる。


ジェンダー、男・女という概念のラベリングは、あくまで一時的なデータに過ぎない。
実体ではなく、移ろいゆく定義付けにすぎない。ほとんどの悩みの正体は、ラベル付けに対する抵抗であって、「実体を見ていない」

例えば、セーラー服自体は、ただの服。体にくっつけるただの布。セーラー服は「女の子の制服」という強いラベリングを持っている。自分が女の子であると表明するラベルが付いた服を着せられ、女の子にされてしまうことが、ftmの場合、自我が男の子であるという本意と異なるので、苦の原因。

つまり、苦の原因は本意と異なる事をさせられる事である。
本意を自分自身で説明できないこと、また周囲が当人の本意を抑えつけることが苦の原因ではないか。

解決策は、多分、対話と理解。
あとはラベル剥がし。

真如
僕は、体は女の子、魂は男の子
それ以上でも以下でもない

(↑でも、まだラベルが貼られた状態なので、完全な真如の思考ではない。文書がない状態まで思考を戻せれば、きっともっと楽)

縁起
モノゴトのラベルを一度外して、意味付け、関係性を考えなおす。

例えば、僕のFTM状態を都合よく解釈するなら(新しく縁起を起こすなら)僕は、男女両方の特性を持ち合わせており、偏らず程よい状態であり、中庸に近く穏やかである。

そして僕は、FTMという特性のおかげでモノゴトのラベル剥がしという面白い考え方にたどり着くことができた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?