己の直視:悲観と勇気

 静かな部屋で身体を休めているひといきの間であったり、仕事に集中しているからこそ流れる頭の中の哲学的なことであったり、思いがけず己と向き合ってしまう瞬間というものがある。

 理想の自分とかけ離れて行く日々を直視させられ、不安を打ち消したり、理由を並べてみたり、不機嫌を募らせてみたり、そうこうするうちに日々の忙しさに乗っかっていつのまにか後回しになっていく。

 それでもいつか誰もが、力の無さを痛感しながらうなだれて祈るようにして「変わりたい」と切望する孤独な胸の内の衝動を見つけるに到る。それはとても頼りなく弱々しいものに違いはないけれど、あまりに人間的で美しいものだと僕は思う。

 現実を受け入れるという大義名分のもと、その悲しい願望は叶わぬ理想として処理させられ、現状の継続という結果に変換しつつ明日を迎えてしまう。その悲観と、その絶望と。たぶん、多くの悩める心はどこかで諦めというガードレールに身体を預けて、ひとまずの糧とするのかもしれない。

「大丈夫だ」と、誰かが言った。

 心の中に燻るそうした変化への切望がいよいよ酸素不足を起こしたその時、最初の一歩を後押しするようにして励ましを投げてくれる人物が現れることがある。様々な思いを混ぜこね乗り越えていくその道中に、そんな誰かの関わりによって悲観の一粒が、勇気の欠片へと変化を起こす。

 泥沼の中にあって、奇跡的に生まれてきたその勇気の微かな灯りは、すこしの熱量を持っている。大切に、見失わないように、包み込むようにして、悲しみの泥もろともその暖かい灯火を、僕は変化の種だと思って離さないようにしようともがいているのだ。

 その熱が、絶望の氷を溶かして流れさせ、生活の潤いとして少しずつ命に染み込ませていく。誰かの励ましが、そうやって諦めのガードレールを少しずつ解体していってくれる。変わるための一歩を、そうしてようやく僕は歩みだす。

「大丈夫だ」と、誰かが言った。

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せっかくnoteに登録したので文を書いてみました。トラスクといいます。難病持ちですが、様々恩ある方々に励まされ、悩みつつ元気に生きています。少しは珍しい体験をしていると思うので、そうした事を根にした何かを時々書けたらいいなと思います。

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