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キリスト教徒が宗派の違いを解説

日本には1.1%しかキリスト教徒がいないので、よく解らない人が殆どの宗派について解説します。

ローマン・カトリック

プロテスタント

聖公会 (アングリカン・チャーチ)  ←私

日本は大きく分けるとこんな感じですが、この「プロテスタント」っていう括りが多分わかりにくいと思うんですよね。

多くの人が誤解しているのですが「プロテスタント」っていう宗派がある訳ではありません。

宗教改革の時に、ローマン・カトリックに対して「自分たちは違う!」と沢山宗派ができたのです。

なので、ローマン・カトリック以外の全ての宗派がプロテスタントと呼ばれています。要するにカテゴリーです。

なので、カトリック目線でいくと、私の宗派である聖公会もプロテスタントです。

じゃあ、なぜ聖公会はプロテスタントと区別されるの?という疑問があると思います。


プロテスタントの派生は、先程、宗教改革によってとお話しました。

あの莫大なページ数に及ぶ聖書は、なかなか目にすることができず、聖職者ですら個人的に所有することはできませんでした。

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それが、あのマルティン・ルターによって、ローマン・カトリック教会がやっている事は違うではないか!となった訳です。

まぁ、有名どころだと、免罪符とかですね。

そして、それぞれに「自分は聖書をこう捉え信じる」って感じに、自分の解釈や重んじる場所などを普及し新たな「教会=信じる者の集い」を作っていった訳です。

基本、プロテスタントは聖書が全てです。

なので、プロテスタントの多くは、カトリックのような豪華絢爛な教会ではなく質素な造りで、十字架の上にイエス様はいません。

聖書には偶像崇拝禁止と書いてあるからです。

個人的には、そこのフレーズから偶像崇拝をしないためにと十字架からイエス様を除いても、十字架がすでに偶像に値するんではないか?という矛盾は感じます。

「キリスト教は十字架を教会に置いたり身につけているのに、聖書の偶像崇拝禁止について、そこについてどう考えているの?」と時々質問を受けるので、それについては別記事に書こうと思います。

なので、プロテスタントとはローマン・カトリック以外の全ての宗派をまとめた総称です。

プロテスタントの中には、長老派、ルーテル派、バプテスト派などなど沢山あって、その◯◯派の中でも◯◯教会と沢山分かれています。


こちらのWikipediaに日本にある宗派が色々載ってました。


さて、私の宗派である聖公会ですが。

成り立ちがね…あまり胸を張って言える感じではないのですが(苦笑)

イギリスの国教ですので、長は現在エリザベス女王です。なので、英国国教会とも呼ばれます。

アングリカン・チャーチ Anglican Church というのは英語の呼び方なんですが、現在のイギリス人種のことをアングロサクソンと言います。

なので、ザックリ言うと「アングロサクソンの教会」という意味でアングリカン・チャーチと言います。

または(なぜそう名付けられたのか私もよくわかりませんが)クライスト・チャーチとも呼ばれます。

宗派名はアングリカン・チャーチ、教会名はクライスト・チャーチが多い気がします。


因みに、クライストとは救世主という意味です。

「ジーザス・クライストJesus Christ = 日本語読 :イエス・キリスト」とは「救世主イエス」という意味であって、クライストやキリストはイエス様の苗字ではありません。


宗教改革が起きた頃、時のイギリス王ヘンリー8世がやらかします。(やらかした訳ではないけど)

ローマン・カトリックは離婚は禁止です。どうしても離婚したい時はローマ皇帝の許可が必要です。

ヘンリー8世は女癖が悪かったとか色々言われますが、第一妃(キャサリン)との間に男の子供ができませんでした。

なので、第一妃と離婚して第二妃を迎え世継ぎを作りたかった訳ですが、許可を貰わず離婚した…というか許可して貰えなかった。

当時のローマ皇帝カール5世はキャサリンの甥でこの離婚を認める訳にいかなかったので「じゃ、自分らカトリックから独立します」とできたのが英国国教会、すなわち聖公会です。

ヘンリー8世はもともと宗教的には保守的だったので、他のプロテスタントのように教義的な問題から聖公会は生まれた訳ではなく、当時の政治的な時代背景からそうする他なかった的な感じです。

とはいえ、実際に聖公会ができる分岐点はヘンリー8世の離婚問題であることは歴史的に事実で、その後のヘンリー王の女癖の悪さは、うーん、いち女としては、ちょっと…と思うところはありますが(苦笑)


まぁ、こんな成り立ちなもんで…イギリス王室にスキャンダルがあると「お国柄ね」と皮肉られる訳です。


プロテスタントは聖書からの確固たる信念を持ちカトリックから独立したのに対し、聖公会はそういう確固たる信念みたいなものが余りありません。

カトリックからは追放され、プロテスタント側からは意思を持たない集まりと軽視されたり、何かと悲しい立ち位置です。苦笑


よく聖公会はカトリックとプロテスタントの中間と言われます。


と言うのも、成り立ちが成り立ちだけに、基本的にはカトリックの伝統を重んじていて余りカトリックと変わり映えがありません。

なので、教会はプロテスタントに比べるとカトリック的な豪華絢爛な造りも存在しますし、十字架の上にイエス様もいます。

プロテスタントはマリア信仰を否定しているのに対し、聖公会は教会や司祭によってまちまちですが、マリア信仰自体を否定はしません。

マリア信仰についてはまた別記事で書こうと思います。

一見、カトリックからは追放され、プロテスタントのように自らの意思を持たない、残念な感じに思えるのですが、私にはこれが重要なのです。


やはり、カトリックはカトリック。

今、私達が世界共通で使っている西暦、紀元前・紀元後も、イエス様の誕生から数えています。

それだけの長きに渡る伝統があるので、意味があるとかないとかじゃなくて「伝統なの!これは!」って感じのところがあるんですね。(あくまで個人的に)


で、プロテスタントは聖書を手にして「おい、カトリック!今まで信じて来たこと聖書に書かれてないやないかい!」と、意思を持って出来上がっているので「ここはこう!」と言った、うーん、押し付けと言ったら語弊が出ますが、余り自分の意見とか捉え方を主張しにくいというか…


そんな感じに対し、聖公会は、カトリックが大事にしている伝統はキリスト教として重んじるけど、個人の捉え方や重んじ方は自由でいいんじゃないの?って感じなんです。

まあ、自分の意思がないヘナチョコめ!って言われたらそれまでではあるんですが…

因みに、今のアングリカニズムの基礎を築き表明したのはエリザベス1世です。


そもそもキリスト教は「愛と赦しの宗教」とも言われる訳で、同じ思想を持たない人を排他的に見る事自体がキリスト教性と違う気が個人的にはする訳です。

自分と違う他者を認めることと、自分と違う他者を洗脳することと、どっちが苦行で、より本来のキリスト教性だろうか?と考えると、違う他者を認める方ではないかなぁ、と個人的には思う訳です。


なので、私は、カトリックでもなく、プロテスタントでもなく、アングリカンだ。

と、いう事に誇りを持って、その教えに反しない生き方をしたい。と思っています。


とは言え、私も人間という愚かな生き物なので、自分と違う他者を認める事が出来ない時も山ほどあるし、自分の考えを押し付けてしまう事もある。

勝手に憎悪を抱き、人を嫌う事だって往々にしてある。

だから、定期的に「私は思いと言葉と行いによって多くの罪を犯していることを懺悔します」と1週間を振り返るよう、日曜礼拝があるのではないか?とも思う。

「本当のクリスチャンには礼拝は必要ない」

と、時々聞くのだけど、教会に行って懺悔をし祈りを捧げなくても、本当のクリスチャンは毎日自分でそれをしているから。まあ、陪餐は自分じゃ受けれないか。


これらは、あくまで個人的な考えや感じていること、洗礼から堅信期間に司祭から教わってきたことなので、これが全てではないです。

色んな意見や見解があると思いますが、いちクリスチャンの、いち聖公会信徒の考えだと思って頂けたらと思います。





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