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低温調理における安全性、リスクとどう向き合うか(その1)

ChefstepsのJouleやAnovaのThe Anova Precision Cookerをはじめとする”Sous Vide(低温調理)”のクッキングガジェットが比較的安価に入手できるようになり、またそれを扱ったウェブの記事が増えていくにあわせて「低温調理の安全性」に不安を感じたり、危惧するコメントやツイートも見受けられるようになりました。この記事ではSous videの安全性とリスクとどう向き合うかについて、私自身が参照している書籍やウェブサイトの紹介を交えながら個人的な見解を書きます。

前提の話1
調理上の衛生に関してよく参照されるひとつに厚生労働省「大量調理施設衛生管理マニュアル [PDFファイル:680KB](平成28年10月6日版)」があります。このマニュアルは同一メニューを1回300食以上又は1日750食以上を提供する集団給食施設などにおける食中毒を予防するために、食品が提供されるまでの間に発生するリスクを一つ一つ取り除いていく「HACCP(ハサップ、あるいはハセップと読む)」の概念に基づき作成されたものですが、その冒頭で以下のように書いてあります。

① 原材料受入れ及び下処理段階における管理を徹底すること。
② 加熱調理食品については、中心部まで十分加熱し、食中毒菌等(ウイルスを含む。以下同じ。)を死滅させること。
③ 加熱調理後の食品及び非加熱調理食品の二次汚染防止を徹底すること。
④ 食中毒菌が付着した場合に菌の増殖を防ぐため、原材料及び調理後の食品の温度管理を徹底すること。

リンク先PDFをダウンロードしてご覧いただければよくわかるのですが、施設の衛生管理から食材の搬入や管理など、またその作業チェックシートまで26ページにわたって簡便かつ丁寧に説明があります。家庭のキッチンにおいても、全くマニュアル通りにやらずとも衛生管理の基本作業がここでわかります。分厚い食品衛生やHACCPの本を読んでも良いのですが、結局何をしたらいいのかというところで、まずこの「大量調理施設衛生管理マニュアル [680KB](平成28年10月6日版)」に目を記事に通しておくと勉強になります。低温調理を行うにあたっても、自分自身の手指などを含めた衛生的なキッチンの確保と衛生的な食材の状態を持つことは基本にあります。

余談ですが、食品が生産から流通においてどんな食品微生物が付着しミクロフローラを形成しているのかについては『食品微生物の生態ー微生物制御の全貌(Amazonリンク)』(中央法規)に食品カテゴリ別にまとまっていて、これはこれで読みがいがあります。辞典のような使い方をする本かと思います。900ページ弱の大型本です。

閑話休題。まずは加熱温度のあれこれを検討する前に調理するキッチンと食材の環境を衛生的に保つことから始めなくてはなりいません。これは低温調理といわず料理する全般においても重要なことです。そしてこの前提なくして調理の温度の話はありません。

前提の話2
食中毒や加熱殺菌の話しになると、どうも「細菌はとにかく悪い奴」という扱いになる傾向がありますが、そもそも生の食材には何百万という数の微生物がいます。そのほとんどは食中毒と関わりのない菌で、酒や、醤油や味噌や納豆、チーズやヨーグルトなど人間はむしろその恩恵に預かっています。細菌は目に見えず、匂いもしないからこそ食中毒が怖くなって全部を悪者にしてしまう、でも美味しいものの多くが細菌の働きによる事実も思い浮かべて欲しいです。私たちが対策しなくてはならないのは食中毒に関わりのある一部の菌だということです。

以上の2つの話を前提に、さて加熱調理にあたっては、よく「大量調理施設管理マニュアル」の以下の文章が引用されていることが多いかと思います。

2.加熱調理食品の加熱温度管理 加熱調理食品は、別添2に従い、中心部
温度計を用いるなどにより、中心部が75℃ で1分間以上(二枚貝等ノロ
ウイルス汚染のおそれのある食品の場合は85~90℃で 90秒間以上)
又はこれと同等以上まで加熱されていることを確認するとともに、温度と
時間の記録を行うこと。

食中毒が発生するとツイッターの厚生労働省食品全然情報でも類するツイートが出ていますね。一方、牛乳などで使われる低温殺菌(パスチャライゼーション)では63度という低温で30分間の加熱となっています。フランスの細菌学者ルイ・パスツールが考案した、微生物を完全に死滅させることではなく害のない程度に減少させる加熱殺菌法です。大量調理施設管理マニュアルとの差は一体何でしょうか。この疑問がSous Videにおける疑問や不安につながっているのだと思います。

とくに低温・長時間加熱によって害のない程度に減少させるのは何よってできるのか、何度でどの程度減少するのかなどに疑問が起きるのだと思います。この疑問に答えてくれる書籍は『食品微生物の科学』(清水潮著/幸書房)や『食品衛生学 (ネオエスカ)』(同文書院/薩田 清明 (著), 寺田 厚 (著))などがありますが、食品微生物の増殖や死滅のダイナミックな動きとしては『Excelで学ぶ食品微生物学ー増殖・死滅の数学モデル予測』(藤川 浩著/オーム社)が実際のVBAプログラムなどはウェブからダウンロードできたりと、エクセルが使える人には興味深い本です(kindle版もあり)。

これらの本を大雑把にまとめると、
D値:最初の菌数を1/10にする時間
Z値:D値を1/10にする温度差
とした時の食中毒を起こす菌のD値はどんなか、ということです。私なりにまとめて見ると以下のようになりました。書籍により値がことなる部分があるので勝手ながら調整しています。また実際にはもっと細かく記載がありますが低温殺菌(パスチャライゼーション)に近い値を選んで一つのみ掲載しています。

サルモネラ 55℃ D値:120秒
腸炎ビブリオ 52℃ D値:80秒~100秒
カンピロバクター D値:56℃→48秒、60℃→7秒
病原大腸菌 57.2℃ D値:48秒~90秒
ブドウ球菌 54.4℃ D値:540分
ボツリヌス菌 80℃ D値:10分(芽胞は121℃ D値6~12秒)
リステリア属菌 D値 52.2℃→43.57分

くらし科学研究所というウェブサイトで「黄色ブドウ球菌の加熱殺菌は何度、何分が必要か?」というページがあり、ここでは温度別・時間別表が掲載されてて、それを見る限り65℃のD値:1分のようでした。

海外での情報はどうでしょうか。Sous videに詳しいダグラス・ボールドウィン(Jouleを開発したChefStepsの監修者で、Anovaのクッカーのアドバイザリー)のウェブサイトには、安全面について概要と専門的な内容が段階的に記載されていました。それによれば多くの食品病原菌は50°Cで成長が止まり、一般的な食中毒に関わる微生物であるウェルシュ菌は52.3°Cまでは増殖することができるため、真空調理では通常54.4°C以上で調理するとしています。なお、この増殖が止まる温度より少し低い温度はもっとも増殖するとなっていました。以下はダグラス・ボールドウィンのウェブサイトからの一部を引用転載となります。

食中毒を引き起こす可能性のあるさまざまな食品病原菌は他にもあります
が、最も強力で危険なものを死滅させることだけに注意してください。あ
なたが真空調理をする際に心配すべき食品病原菌は、サルモネラ菌、リス
テリア菌、大腸菌の病原性菌株の3つです。リステリア菌は死滅させるのが最も難しいのですが、食中毒をもたらすサルモネラ菌や大腸菌は少なくなります。食品の中にどれだけ多くの病原菌が存在するのか分からないた
め、多くの専門家は食品を調理する際にリストリア菌を少なくとも100万
分の1に、サルモネラ菌を1000万分の1に、大腸菌を10万分の1に減らす
ことを推奨しています。真空調理なら簡単にこれを行うことができます。
十分に細菌が死滅するまで、食品を130°F(54.4°C)以上に保って湯せん
するだけです。
While there are a lot of different food pathogens that can make you sick, you only need to worry about killing the toughest and most dangerous. The three food pathogens you should worry about when cooking sous vide are the Salmonella species, Listeria monocytogenes, and the pathogenic strains of Escherichia coli. Listeria is the hardest to kill but it takes fewer Salmonella or E. coli bacteria to make you sick. Since you don’t know how many pathogens are in your food, most experts recommend that you cook your food to reduce: Listeria by at least a million to one; Salmonella by ten million to one; and E. coli by a hundred thousannd to one. You can easily do this when you cook sous vide: you just keep your food in a 130°F (54.4°C) or hotter water bath until enough bacteria have been killed.
Via : http://www.douglasbaldwin.com/sous-vide.html

なお加熱温度の違いが安全になる調理時間を大幅に変えることを指摘していて、牛肉の場合、54.4°Cでの調理は60°Cの時の4倍長くかかるとしています。また鶏肉は牛肉より約60%長い時間が必要なのだそうです。先の書籍だとブドウ球菌が54.4℃で540分(6時間)ですから、タンパク質(アクチン、ミオシン、コラーゲン)のそれぞれの凝固温度すれすれの高い温度に設定すると、54.4℃よりも高い温度設定(例えば65℃)でも良いかと思います。以前に豚ばら肉を60℃で48時間加熱した記事がありましたが、ブドウ球菌の54.4℃6時間はゆうにこえている上、ボツリヌス菌やウェルシュ菌についても栄養細胞としては大丈夫のようです(芽胞は除く)。ただしすぐに食べること。芽胞はそのままでは種のような状態で食中毒を直接発生させないものの、残存している可能性があり、繁殖する温度帯になれば芽胞から栄養細胞となって増殖し食中毒の原因になり得るからです。したがって低温調理でできあがったものを保存する場合はさらなる注意が必要ですね。(ウェルシュ菌については「一晩寝かせたカレー」の危険性などがこれに該当します。冷やすならすみやかに。逆に上記のようなことであれば54.4℃で保温する方が安全かもしれません(他の要素は度外視して))。

まずはこんな感じにざっくりとまとめてみました。こうやっていくつかの書籍やウェブサイトを横断してみるとダグラス・ボールドウィンのウェブサイトはすごくよくまとまっています。ということで、次回はダグラス・ボールドウィンのもう少しテクニカルな内容に踏み込んでご紹介したいと思います。

さて温度を並べて食中毒に関わる細菌が死ぬ温度を眺めていて「たかだか1℃や2℃の違いじゃないか」と感じる部分もあると思いますが、こと、自分のお風呂の温度を考えてみたり、うだるような暑い日のことを考えるとやはり1℃や2℃の違いは大きな違いですね。

参考「ダグラス・ボールドウィン」:
http://www.douglasbaldwin.com/sous-vide.html
参考「くらしの科学研究所」:
http://www.kurashikagaku.co.jp/report/index12.html

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