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『おいしいものには理由がある』(KADOKAWA)を全文公開[第二章 出汁、日本人はどこから来たのか]

『おいしいものには理由がある』という本の全文公開です。単行本に写真は入っていませんが、note用に入れています。末尾に入っている動画はダイヤモンド・オンライン掲載時のものです。(写真/志賀元清 動画/志賀元清 樋口直哉)

第二章 出汁、日本人はどこから来たのか

千三百年前の味を現代に ──〈潮鰹〉 西伊豆 カネサ鰹節商店

 ずっと疑問に思っていた。日本人はどうして出汁がこんなに好きなのだろう、と。日本料理の基本は昆布と鰹節だが、なぜカツオだったのだろうか。

 日本人はカツオに愛着を持っている。鰹節の歴史は千三百年前の奈良時代に伊豆や志摩、駿河などでカツオ漁が盛んになり、堅魚、煮堅魚が税金として収められていた記述にさかのぼることができ、室町時代に焙乾という技術が導入されたことで鰹節の原形ができあがる。一四八九年に書かれた『四条流包丁書』にはすでに「花鰹」という言葉があるが、これは鰹節を削ったものと考えられる。

 その前に教科書で鰹節の作り方を復習しておこう。カツオをおろして、煮籠に並べ、沸騰させないお湯で一時間半〜二時間煮て、骨を抜く。これが「なまり節」だ。要冷蔵なのでスーパーに行くと魚売り場で売られていることが多い。
 保存性を高めるためには水分を抜かなければいけない。そこで生まれたのが煙で燻すことで乾燥させる焙乾という技術である。とりだしては冷まし、また火を入れる作業を繰り返し、できあがったのが「荒節」である。現在、日本のけずり節の流通量の八割はこの荒節で、この表面を削った「裸節」は関西方面で好まれる。また、そば出汁などを引くときに用いる「厚削り」の原料も荒節だ。
「荒節ばかりが流通するようになって本物の味が知られてない」
 築地の鰹節店に行くと、よくこんな声を聞く。
「本物は『本枯節』だよ」
 枯節は荒節に二回以上カビ付けを施したもの。上品な風味が特徴だ。創業一六九九年の老舗鰹節問屋「にんべん」では四回以上カビ付けを行ったものを「本枯節」と呼ぶ。枕崎、焼津など産地の違いによって鰹節の味は様々だが、スーパーに行って鰹節を買おうとしても、パックを見ただけでは荒節なのか、枯節なのかよくわからない。
 実は裏の原材料表示には〈かつおのふし〉と〈かつおのかれぶし〉の二種類があり、そ れぞれ荒節と枯節を指している。花カツオとして売られているのはたいてい荒節を削ったもの。ややこしいのは削り節の呼び方で「かつおぶし削りぶし」というのが枯節を削ったもの、「かつお削りぶし」というのが荒節を削ったものである。

  はっきり言って、わかりづらい。

 他にも形を区別するための本節(三枚におろした魚の身を、背と腹に切り分けたもの)に対して亀節(三枚おろしの状態で鰹節にしたもの)などの呼称もある。鰹節と簡単に言っても種類が多いのだ。これは一から勉強しないことには手に負えない。
 日本料理の根幹である鰹節について知りたい、と西伊豆町田子にある創業一八八二年のカネサ鰹節商店を訪れた。鰹節が現在の形になる前の堅魚とはどんなものだったのかと調べたところ、これが潮かつおという形で西伊豆の田子地区に伝承されていると聞いたからだ。

 山道を進むと海と山に囲まれた小さな集落が見えてくる。カネサ鰹節商店はその集落の山側にあり、あたりは独特の静けさに満ちていた。
 カネサ鰹節商店ののれんをくぐると、鰹節などと並んで潮かつおを使った製品が並んでいた。軒先には藁飾りがついたカツオがつるされている。カツオの内臓を抜き、塩をまぶし、樽につけ込み、風で干したもの──これが潮かつおだ。魚が藁かっぱを着たような姿はどことなくユーモラスである。
 取材に訪れた日は年末で潮かつお生産のピーク。工場では発送作業に追われていた。

 「かつて獲れすぎた魚を塩蔵し、保存する文化は日本中いたるところで行われていたでしょう。潮かつおの文化がここ田子地区だけに残った理由は神事に用いられていたからです」
 五代目で副代表の芹沢安久さんが説明する。口調は静かだが、すぐに熱が帯びてくる。
 潮かつおには紙垂が垂れている。紙垂というのは聞き慣れない単語かも知れないが、神社に行くとよく木にギザギザの形をした白い紙が垂れ下げられているのを見たことがあるだろう。あれが紙垂である。雷が多いと稲がよく育ち豊作なことから、この形になったと言われ、悪をはらうとされている。
 カツオの塩蔵品は他に宮城県女川地区のカツオのだぶ漬があるが、あちらは三枚におろした身を塩漬けにするのに対して、潮かつおは一匹丸ごと塩漬けにし、風干しにすること、そして海の恵みであるカツオと里の恵みである米の稲藁という日本人の信仰が関わる二つの要素が組み合わされている点に大きな違いがある。
「今は稲藁の確保が一番大変です。コンバインで収穫すると使い物にならないので、手で刈ってもらって確保しておかなければいけない」
 芹沢は田子地区に残る潮かつおの文化を残そうと二〇〇九年七月にしおかつおの会(後の西伊豆しおかつお研究会)を立ち上げ、現在も研究会の会長を務めている。潮かつおは二〇一四年にはスローフード協会から〈味の箱舟〉に登録された。

「潮かつおは正月に『正月魚(しょうがつよ)』という名前で、神棚に供えます。昔は各家庭でつくられていましたが、私が家業に入る頃には鰹節屋から買ってくるようになっていましたね。とは言っても今は鰹節屋自体が減り、西伊豆町で潮かつおを作っているのはうちと漁協くらいになってしまいましたが」
 かつてはお正月に漁船の船長が神社に奉納した潮かつおを船員に振る舞った。それは契約の証でもあったという。食べさせてもらった人は今年もよろしく、という意味。食べさせてもらえなかったら今年は契約しないよ、という意思表示だった。雇い手と働き手のあいだに神を介在させることで、契約をより強固なものにしていたのだ。
「昔は海に行けばカツオが獲れた。たくさん網にかかれば豊かになるし、そうでなければ貧しい。潮かつおは塩分濃度が二十%くらいあり、現代の減塩志向にはマッチしません。でも、食べなくなればこの文化は絶えてしまいます」
 研究会では食べ方の提案をしようと、薄くカットして真空パックにした製品や、燻し焼きのパック、ふりかけなどを開発した。
 はじめは〈なにを考えているんだ〉と周囲から反しんせん ささ 発があったという。〈神様に失礼だ〉と。潮かつおはいわゆる神饌(神に捧げる食べ物)だ。それを切ってしまうことは神事に敬意を払う古老たちには許し難いことだった。
 その気持ちは芹沢にも理解できた。しかし、家族構成の変化した現在ではカツオが一匹届いても、扱いに困ってしまう家がほとんどだ。入り口として食べてもらわなければ価値が伝わらない。
 町おこしのために潮かつおを使った製品を。そうして、生まれたのが『西伊豆しおかつおうどん』だ。潮かつおの焼き身、ごま、海苔、わかめ、鰹節とネギを茹でたてのうどんにふりかけた麵料理は酒の後にちょうどいい、と好評だ。
「次第に応援していただけるようになりました」
 芹沢は安堵の表情を浮かべる。文化を残すのは容易ではない。それがどんなにいいものでも時代にあわなくなれば、日常では使えない骨董品になってしまう。時代にあわせて本質を残しつつ、形を変えていかなければ文化は残っていかない。

 潮かつおのスライスを素焼きにし、細く裂いて食べてみる。二十%という塩分濃度は例えば醬油の塩分濃度が約十六%なのでそれ以上だ。強烈な塩辛さは現代の食べ物にはない味だ。しかし、嚙んでいると口のなかに旨味が広がってくるので、不思議と癖になる。
 燻し焼きの方はやや鰹節に近い味わい。少量をお椀に入れて、お湯を注ぐだけでスープになりますよ、と教えられたが、たしかに茶漬けにするとじんわりと味が広がる。チャーハンの味付けなど塩代わりに使えば旨味によってかえって塩分を控えることができそうだ。
 カツオというのは偉い魚だと思う。その旨味は他に類がない。しかし、潮かつおのスープは鰹出汁と比較すると、その味わいはだいぶ違う。潮かつおでとった出汁にはどこかアジア的な雰囲気が漂っていて、香港などで食べる魚の干物でとったスープにニュアンスが近い。
 ここから鰹節に発展するまでにはどのような道筋があったのだろうか。
「もう一つ、ここに潮かつおの文化が残った理由はここがある意味、発展から取り残された町だからかもしれません。荒節が発明されたのは江戸時代初期。紀州、現在の和歌山県で発明された熊野節は、はじめは門外不出でしたが、やがて日本各地に広がります。そのきっかけは津波だと言われています」
「津波ですか」
「震災や津波による被害を受けた職人が様々な場所に移り住んだことで、製造方法が伝わったようです。本枯節が生まれたのは江戸時代のことです」
 本枯節は土佐、現在の高知県で生まれた。鰹節の消費地であった大坂や江戸に遠かったので、運ぶまでにカビが生えてしまうことに悩まされたが、逆にそれを利用して水分を抜く方法が発明されたのだ。さらにカビをつけることで脂肪分が分解され、旨味も増すことがわかった。 「その製法はやがて紀州にいた土佐与市という人物によって安房(現在の千葉県)、そして伊豆に伝えられます」
 地名と人名が重なってややこしいが、紀州の土佐与市によって土佐で生まれた本枯節の製法がこの地にも広められた。同じ頃、別の人物によって薩摩にも製法が伝わり、後に土佐節、薩摩節、伊豆節が三大名産品と呼ばれるに至る。西の土佐、薩摩に対して、伊豆は東の一大生産地だったのだ。
「うちの田子節が伊豆節の大本です。このあたりはかつて江戸で消費される鰹節の中心生産地でした。しかし、流通が海運から陸運に変わったことで、やがて廃れていきます。このあたりに四十軒あった鰹節屋も今や三軒、カツオ漁船もなくなりました」
 カネサ鰹節商店は手火山式焙乾法という当時の製法を守っている。

 手火山式焙乾法は下に薪をくべ、直火の高温で焙乾する手法。炉は六基あるが、穴の深さがそれぞれ違い、場所によって燻し具合を調整するそうだ。直火なので焦げるリスクが 高く、職人がかかりきりで作業しなければいけないうえ、作業は十回から十五回に及ぶ。
 「田子は海があってすぐに山なので鰹節製造にはすごく立地条件が良かった。薪もこの地区でとれたものを使うというルールになっています。ナラ、クヌギ、コナラ、サクラをうまくブレンドして、焙乾していくという形です」
  伊豆の山は人の手が入った山だ。前述したように植林された山は手入れを続けなければ保水能力が落ち、大雨が降ると土砂が流れ出し、海の生態系を壊してしまう。
「地元の木を使うルールは山を守りなさい、という知恵だったのだと思います。鰹節をつくるために山から木を切り出し、手入れし続けることで、魚が獲れる。そして、魚からつくった肥料を山に戻す......という循環ができていたんですね」
 焙乾し、できあがった荒節を室に移し、カビ付けが行われる。普通は荒節を籠に並べてカビ付けを行うが、カネサ鰹節商店では丸い木桶を用いる。二週間から三週間かけて、カビをつけたら天日で干して、それを落とす。そして、またカビ付けを行うことを繰り返す。
 元々、土佐式の製造方法ではカビ付けは一度だけだったが、伊豆の場合は味を良くする目的で三回以上カビ付けが行われた。そして、さらにおいしいものをつくろう、と田子地区で明治三十〜四十年代にかけて四〜六番カビ付けの伊豆節の本枯節が生まれたという。明治四十年というと一九〇七年。築地でもっとも珍重される本枯節の歴史は百年ちょっと、と意外と浅い。
 本枯節の製法をあみ出した田子地区はその後、衰退していくが、伊豆節はやがて対岸にある焼津に伝えられ焼津節として発展する。焼津港があり原料確保が容易だった焼津は田子から学んだ製法を機械化し、大量生産に応用した。東海道本線の開通も追い風になり、焼津は大きく発展していく。

 現在、一般的な鰹節製造業者はカビ付けの回数が三回〜四回というところが多いが、伊豆田子節のカネサ鰹節商店は六回から七回、カビ付けをほどこす。一回カビ付けの回数を増やすと、半月ほど余計に時間がかかるので、効率が悪い。西伊豆田子地区は発展から取り残されたがゆえに、こうした製法が残ったのだ。
 手火山式焙乾法で製造された本枯節で出汁を引いてみる。普段、自分が使っている枕崎産よりも複雑味のある風味だった。江戸で愛された味だけあって、醬油とも相性が良さそうだ。
「今は山師が減ったこともあって、薪の調達が難しくなってきました。昔はこの後の山も広葉樹中心で、とてもきれいだったのですが......それに鰹節を削って出汁をとる家も減りましたね」
 ただ暗い話ばかりではない。にんべんの高津社長の話では社会の二極化が進むなか、高級な鰹節を買う層は増えていて、ネットを中心に鰹節削りも売れているという。

 世の中がめまぐるしく変わるなか、文化をどのような形で残していくか。
 建物を出て振り返ると、伊豆の山々が見渡せた。森は深く、鬱蒼として、あたりはあいかわらずしんとしている。それはちょうど神社に足を踏み入れた時の緊張感を持った静寂に似ていた。日本の繁華街を歩いていると片隅にぽつりと、神社や稲荷が残っていて驚くことがある。あるいは発展から取り残されたから、この地区で昔ながらの鰹節が残ったわけではないのかもしれない、と僕は思った。どれだけ発展していても人々はこのやり方を守っていたのではないか、と。

日本から世界へ──〈鰹節〉 焼津 新丸正

日がカンカン照ると、焼津というこの古い漁師町は、中間色の、言うに言えない特
有な面白味を見せる。まるでトカゲのように、町はくすんだ色調を帯びて、それが臨む粗い灰色の海岸と同じ色になり、小さな入り江に沿って湾曲しているのである。

 これは小泉八雲『焼津にて』という紀行文の冒頭である。港の防波堤から陸へ目をやると町全体が一望に見渡せる。灰色の瓦屋根や風雨にさらされた木造の家屋、寺の庭のありかを知らせる松の木立。振り返り海に目をやれば果てしない水平線が広がり、左手にはまぼろしのように神々しい富士の姿。毎年、お盆──八雲は死者の祭りと表現した──の時期を焼津で過ごした彼はその風景を端正な文章で綴っている。

 現在の焼津は残念ながらありふれた地方都市の一つでしかない。ロードサイドには没個性的な商店が建ち並び、大型店に客をとられたシャッター商店街には人気がなかった。

 しかし、焼津港に魚が水揚げされる様子は他の町では見ることができない景色だ。焼津港はカツオの水揚げ量、日本一。そこで水揚げされたカツオは鰹節の原料になる。
 現在、鰹節の生産量が最も多いのは鹿児島県枕崎で、次いで指宿市山川、次いで焼津という順番だ。(平成二十七年時点)この三カ所で日本の鰹節のほとんどすべてが生産され、 一位の鹿児島に対して焼津は荒節に特化することで存在感を示している。
 焼津を訪れたのは鰹節工場を見学するためだ。その日はあいにく雨が降っていたが、僕らは鰹節メーカーである株式会社新丸正を訪れた。
 鰹節業界は原料を製造する「かつお節製造業者」と削り節を製造する「削り節製造業者」にそれぞれ分かれている。例えば先にも挙げた日本橋の老舗にんべんは「削り節製造」の会社で、原料の鰹節自体は協力工場から調達している。
 新丸正は鰹節の製造から商 品化まで一貫して行っている珍しいメーカーだ。 布看板が印象的な一般客向けの売店と本社の建物の隣にある工場から香ばしい鰹節の香が漂ってくる。会社の会議室の一角で常務執行役員の柴田一範氏からお話を伺った。

「製造から商品まで一貫して行っている会社は珍しいと思うのですが」
「そうですね。当社は現久野社長の祖父が削り節メーカー、鰹節問屋として始めた会社で、その後原材料である鰹節製造にも事業を広げました」
「いわば川下から川上へと事業を拡大してきたわけですね。販路は主に業務用ですか」
「はい。二〇〇九年から堅魚屋という自社ブランドを立ち上げ、一般消費者向けの事業もはじめましたが、それでも業務用の比率が九割です。当社ではめんつゆやだし入り味噌などお客様の用途に応じて都度、つくり方から変えています。これは原料から一貫生産しているからこそ可能なことです」
「鰹節のつくり方から?」
「そうです。例えば和風のカップ麵って最近、多いですよね。この場合はお湯をさした瞬間に香りが立つようにつくります。他にもだし入り味噌の場合は白く仕上げなければいけないとか、一つ一つつくり込んでいくのです。添加物を使ったりするのではなく、冷凍で入ってくるカツオの解凍温度を変えることで、イノシン酸分解をコントロールし、コクを強くしたり、旨味を多くしたりという風に、旨味構成を調整しています」
 解凍温度をコントロールすることで旨味やコク味を調整するとは驚きだ。
「冷凍カツオの価格が上がっているという話も聞きますが影響はどうですか」
「すごくあります。鰹節は原価のうちの八割が原材料費なんです。残りの二割が加工賃と薪代、人件費など。ですから原材料価格の影響は大きいんです。削り節原料は相場に連動 して売ることができるのですが、小売店などで売られている削り節は値段を変えるわけにはいかないので」

  鰹節工場を案内してもらう。「世界で最も影響力のある百人」に選出されたこともあるニューヨークのシェフ、デイヴィッド・チャンもこの工場を訪れ、鰹節について学んでい ったという。
「あの方は焙乾のなかにまで入って燻製の匂いを確かめていました。日本人でそこまでする人はいませんね」
 柴田はそう苦笑する。新丸正は海外展開にも力を入れている会社だ。
「昔は Fishy(魚臭い)という反応が多かったのですが、今は味わってもらえばたいていおいしい、といってもらえます」
 好調なアメリカ市場だけではなく、規制の厳しい EU 圏にも輸出する計画がある。対米と比べ、対 EU への輸出ハードルが高いのは燻製する過程で生成されるベンゾピレン という化合物基準の影響だ。スモークサーモンと同じ基準が百グラム当たりで適用される ので、水分が少なく軽い鰹節は不利で、ススや焦げが少しでも付着していると基準に適合しない。
 輸出の際、取得が必要になる HACCP(総合衛生管理過程)システムについてもアメリカの場合は工場内だけで基準を満たせばいいのに対し、EU 向けには船、港、冷凍庫、 工場においてそれぞれの基準を満たさなければ輸出ができない。
 新丸正では焼津市内の加 工業者と共同でベンゾピレンが少ない鰹節を開発し、EU圏への扉を開いた。 鰹節業界は江戸時代から続いているという会社も多いなか、新丸正は創業八十二年の比 較的若い会社だ。そうしたことが海外への展開などチャレンジを生む社風を生んでいるの かもしれない。  

 鰹節づくりは流水解凍したカツオを処理していく生切りという工程からはじまる。若いスタッフが変わった形の包丁を使いながら器用に卸していく。思ったほど魚臭い匂いはな い。カツオは船上で凍結されるので、鮮度がいいからだろう。 「こうした作業を手作業で行うのは技術の継承という意味もあります。奥で作業している 彼は入社して一年目ですが、若い人がこうした作業して、覚えてくれるのはありがたいことですね」
  おろしたカツオをセイロに並べていく。煮熟する際にセイロに魚の身が触れて身割れするのを防ぐために、魚の中骨で保護するなど細かなところに気を配っていた。この工程がそのまま製品の形に影響するので、作業は丁寧だ。
 煮たカツオの身は水のなかで小骨を除去する。やわらかい魚の身を崩さずに骨を抜くのには、手作業しか方法がない。本枯節の場合は傷などがあるとそこからカビが入ってしまうので、中落ちからとった身をペースト状にしたものでふさぎ、さらに形を整える。

 その後、蒸して殺菌した後、焙乾の作業に移る。
 焙乾には焼津式乾燥機を使う。これは熱源が横にあり、そこから庫内に煙を送り込むもので、最初はやや高温で乾燥させる。数時間経つと一度、セイロをとり出す。庫内の左右で温度が異なるのと、水分を均等に飛ばしていくためだ。そうして少し温度を下げた乾燥機に再び入れる作業を、カツオの大きさに応じて繰り返す。
実は特別にこの段階のカツオを食べさせてもらった。ソフトジャーキーくらいの食感のカツオはしっかりとした旨味がすでにある。
「おいしいですよね。カツオっていう魚は元々、すっごくおいしい魚なんです」
 僕は頷く。鰹節になる前で充分においしくなければ、高品質にはならないということだ。
 その後、急造庫という焙乾機で、燻煙によってさらに乾燥させる。これは下に薪をくべる形の直火型焙乾という方式で、煙と熱によって燻臭が強い節ができあがる。顔が近づけられないほど熱い作業場で職人がつきっきりで作業をしていた。

 燻製の香りがあたりに漂っている。鰹節の味は燃え盛る火と煙がつくりだすのだ。焙乾に使う薪を見せてもらうと、立派な木材だ。
「いい木を使っていますね」
「国産のナラです。これにはコストがかかっています。人件費の次に高いくらいです」
 できあがった荒節を割ってなかを見せてもらうと、断面は赤褐色でルビーのようだ。
削り節の工場があるのは鰹節製造とは別の建物だ。一転してクリーンな環境で、削り節は製造される。削る技術一つで味が異なるのが鰹節の面白いところだそうだ。
「昔、かつおパックがない時代はその日に使う分をご家庭で削っていました。その習慣がなくなったのは昭和四十年代末だと思います。代わりに普及したのがにんべんさんが開発、業界の発展のために技術公開したかつおパックです。そのかつおパックの需要に応えようと開発した自社商品が『駿河ふぶき』になります」
 削り節『駿河ふぶき』は厚めに削られた本枯節のホロホロとした口当たりが特徴の削り節で、同社の象徴的な商品だ。個人的には子供の頃から食べている馴染みがある味で、お浸しにのせて食べるとひと味違う。

 ところで荒節と本枯節のどちらを選べばいいのだろうか。築地の鰹節屋は「本枯節」の出汁が一番、というが本当なのだろうか?

「枯節はある意味では荒節の表面を削ってカビ付けしていきますので、燻臭は控えめになります。そういう意味では味のパンチが弱くなる。だから、お味噌汁なんかには荒節のほうがおいしくできると思いますが、お澄ましなんかには枯節が向いている、という具合です。若い方は荒節のほうがパンチのある香りでおいしいって言いますし、私くらいの年齢になると枯節の旨味がわかる......と言いますか、好みもあるとは思います」
「高級な枯節のほうがおいしいと思っていましたが、そういうわけでもないんですね」
「そうです。大事なのは使い方。そのあたりは我々の業界が伝える努力を怠ってきた部分じゃないでしょうか」
 高価な本枯節は関東で好まれ、荒節の出汁は大阪など西日本を中心に人気がある。荒節はカビによる脂肪やアミノ酸の分解が進んでいないため枯節よりも旨味は少ないが、昆布出汁とあわせて使う大阪では香りのある荒節が向いていたのかもしれない。歴史をさかのぼってみても本枯節が本物で正しく、荒節がそうではない、ということはない。当たり前の結論になってしまうが、大事なのは使い分けということになる。
 出汁は濃ければいいというわけでもなく、家庭料理でも味噌汁などは薄い方が味噌の味が生きるし、料理屋の吸い地も淡さを尊ぶ文化がある。いつから日本人は濃厚な旨味を求めるようになったのだろうか。根拠があるわけではないが、日本人の味覚を変えていったのは味の素が一九七〇年に販売した『ほんだし』に代表されるインスタント出汁ではないか、と思う。
 和風の出汁の素は東京オリンピックの年の一九六四年に他社から発売されているが、溶けやすくダマにならない『ほんだし』の登場は革命的だった。 インスタント出汁は鰹節の粉末をベースに調味エキスと旨味調味料、糖や塩などをブレ ンドしたもので、忙しくなった日本人に受け入れられた。『ほんだし』は発売後、右肩上 がりで売れ続け、マーケットで半分以上のシェアを獲得した。
 八十年代の日本の家庭料理の味は数字上、ほんだしに代表される顆粒出汁が支えていた。 顆粒出汁にもいいものはあるが、多くは旨味が濃厚で、後味がきれいでない。時間がない時には便利だが、やはり素材から引いた出汁の味にはかなわない。 「最近は出汁パックが非常によく売れています。インスタント出汁も悪くないですが、消費者の方も自然な味わいを求める方が増えてきたと思います」
 たしかに出汁への関心はこのところ高まってきた。少しずつ先人から自分たちに伝えられてきた良さを見直す動きがはじまっているのかもしれない。 ここで気をつけなければいけないのは本枯節が本物で荒節が偽物ではないように、インスタント出汁が間違っているということではない、ということだ。そこにはそれぞれのお いしさがあるだけで、あとは使い方ということになるし、受け入れられるおいしさも時代によって変わっていく。
「今、昼なんでカツオが水揚げされている様子が見られると思います」
 会社を後にして、焼津港に向かうと、大型のまき網船から水揚げされた凍ったカツオが大きな音を立てて、陸に揚がっていくところだった。
 マイナス二十°Cで凍結され、マイナス五十°Cの環境で運ばれてくるカツオは遠く南洋諸島のミクロネシア、パプアニューギニアといった海域から運ばれてきたものだ。かつては近海のカツオを加工していたが、鰹節をつくるためには魚に脂が乗っていては困るので、南の海でとれたカツオの方が好都合だったのだ。
 鰹節がそんな遠い場所でとれたカツオからつくられていることを食べている人は知らない。でも、その出汁を味わうとおいしいだけではなく懐かしさを感じる。

 名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ

 黒潮にのって南洋諸島から日本近海まで泳いでくるカツオを見ていると、島崎藤村の歌を思い出す。この詞は一八九八年、柳田国男が愛知県の伊良湖岬の突端で椰子の実を見つけたという話からヒントを得て書かれたものだ。黒潮に乗って流れ着いた椰子の実から柳田は、日本人もまた遥か南方から海の道を通って日本列島に来たのではないか、と考えた。
 三万八千年前に日本人がどこから来たのか、まだ正確なところはわかっていない。でも、鰹節の味に懐かしさを感じるのは自分たちがかつて南の島からやってきた記憶を呼び起こすからかもしれない。どうして日本人がカツオに親しみを抱くのか。それはかつてすぐそばにあって日本人の暮らしを支え、今は黒潮にのって北上するカツオに自分たちの姿が重なるからだ、と僕は思った。いつのまにか、朝から降っていた雨があがり、港には心地よい潮風が吹いていた。

昆布と日本人 ──〈昆布〉 福井県 奥井海生堂

 昔、複合商業施設のオープンや百貨店のリニューアルの際、目玉となったのは海外ブランドだった。東京、汐留にはイタリアを摸した奇妙な町並みがあるが、街の再開発には外国の空気を入れるのが、人々の関心を集めるための定番の手法だった。

 しかし、ここ十年あまりでそれはすっかり様変わりした。二〇〇〇年代半ば頃からオープンしたコレド日本橋や東京ミッドタウンなどは和のイメージを押し出した施設だ。二〇一四年にリニューアルしたコレド室町には生活道具を扱う日本橋木屋や鰹節問屋の老舗にんべん、漆器の山田平安堂や福井県にある昆布の老舗、奥井海生堂などが出店している。自分たちの文化の見直しがはじまったのだ。
 日本の出汁の基本は鰹節と昆布。その昆布について教えてもらおうと、奥井海生堂の奥井隆社長からお話を伺った。

 今、昆布は世界から注目されているが、奥井はその立役者の一人だ。関西や沖縄では昆布を食べる文化があるが、昆布の産地は主に北海道だ。福井で奥井海生堂が生まれたのには立地が関係している。
「大阪や京都に昆布が広まったのは北海道と大坂を往復しながら物資の売却をする北前船の航路が確立されたことがきっかけです。敦賀は北前船の唯一の中継地、交通の要衝だったわけです」
 奥井海生堂は福井県敦賀に本店を置く老舗の昆布問屋。敦賀の昆布商のなかでは一番古く、代々、曹洞宗大本山永平寺、大本山總持寺御用達の昆布司として知られている。その昆布はプロの世界でも名が知られており、顧客には菊乃井をはじめとする京都の名だたる料亭が顔を揃えている。
 しかし、その道のりは平坦ではなかったという。
「戦前は豊かだったと聞いてますが、敦賀空襲で昆布蔵をはじめ、すべてを失ってしまったのです。父も廃業を考えたほどですが、永平寺の方たちや同業者の助けもあって、再出 発することができたそうです」
  再出発した奥井海生堂は戦後、環境の変化にさらされる。ライフスタイルの変化にともなう、昆布の需要低下だ。さらには出汁の素の普及もそれに追い打ちをかけた。
「味の素さんとは今では旨味の研究や世界展開などでもご協力させていただき、いいお付き合いをさせていただいていますが、当時、先行きには危機感を持っていました。今では 笑い話としてお話しできますが、私が会社に入って数年が経った頃、味の素さんがスポン サーの記録映画の取材依頼がきました。『どういうテーマの記録映画なんですか?』と私 が聞きましたところ、『消えゆく業界を記録する』という主旨だ、と。父はひどく怒って いましたが、これには参りました」
 奥井はそう言って、苦笑した。
このままでは販路も限られ、先細っていくだけだ、と奥井は東京への進出を決める。八十年代、大分県の平松守彦知事が地域の名産品を掘り起こすべくはじめた「一村一品運動」が話題になり、百貨店でも地方催事が行われるようになっていた。
「父は反対しましたが、守っていくだけではこの先、難しい。でも、東京に行っても最初はけんもほろろでしたよ」
 東京の鰹節、西の昆布と言われているがそれは本当だった。築地の昆布屋を訪ねた奥井は〈東京では昆布は売れないからやめたほうがいい〉と門前払いを食らう。

由来、東京人は昆布の味を知らない。だから昆布だしの味というものを解しない。
従って昆布を使わない。それゆえ、あまり方々で売ってないということになる。東京人の舌は、そう言ってはわるいが、すこぶる杜撰なものである。『昆布とろ』

 北大路魯山人はそう書いているが、どうやら昭和五十年代になっても状況はたいして変わらなかったようだ。
 今でこそ東京でも出汁昆布は当たり前のように売られているが、当時は売れない食材の代名詞だった。
 風向きが多少変わったきっかけは高級スーパー、三浦屋のバイヤーから「大きな昆布は売れないから小さく切った方がいい」とアドバイスされたことだった。

  この助言は結果的に正しかったが、昆布問屋としては難しい決断だった。昆布は神饌の一つ、それを切り刻んで売ることなど許されないことだ、と父親からは大反対された。しかし奥井は東京に昆布文化を広めるため、と昆布を切り、小さな袋に入れて売りはじめた。
 「東京には昆布の文化は本当にありませんでしたね。まず聞かれるのは昆布の使い方がわかりません、ということ。次に一番、多かった質問は『この昆布は敦賀で採れたんですか』というもの。昆布のことをもっと知ってもらわなければ、という気持ちになりました し、接客の重要性にも気づかされました」
 ほどなくして西武百貨店のバイヤーが奥井の昆布に目をつけ、地方催事へ永平寺御用達の昆布問屋として出店を頼まれた。こうして少しずつ東京にも昆布が普及していく。
 東京で昆布が普及しなかったのは水の違いも大きい。日本の水はほとんどすべて軟水だが、京都に比べると東京の水は関東ローム層に降り積もった火山灰等の影響を受けて硬度がやや高い。硬度が高いということは魚や昆布から味が出にくいのだ。
「赤坂に京都の菊乃井さんが出店された時に『いつもの昆布を』とご依頼されましたので、お送りしました。すると『本店と同じ味が出ない。同じグレードの昆布を送ってくださ い』とお𠮟りを受けました。ところが同じ昆布をお送りしているはずなのです。先方がた しかめた結果、原因は水の違いでした。以来、菊乃井さんは毎朝京都から水を運んでいるそうです」
 逆に関東で使うのと同じ量の鰹節を関西で使うと魚臭くなってしまう。土地に応じて微妙な使い分けが重要だが、昆布出汁の使い方はやはり関西の人間に一日の長がある。

 余談だが、関西人の昆布にかける情熱はすさまじい。大阪の昆布問屋こんぶ土居では昆布の『十倍出し』という濃縮出汁を製造、販売している。化学調味料や各種エキス類などは一切使わず、すこぶるおいしいのだが、機会があれば手にとって裏の表示を見て欲しい。
 原材料名のところに〈天然真昆布 (北海道函館市白口浜)( 30g)、鰹枯節(鹿児島県、指宿市山川)(29g)、完全天日塩(高知県幡多郡黒潮町)(5 g)〉と分量まで表示してあるのだ。
 三代目の土居成吉さんのお話を拝聴したことがあるが、それについてこう語っていた。
「掃除と表示は誰にでもできる」
 なるほど、と思うが、原材料によほどの自信がなければできないことだ。

 さて、話を奥井海生堂に戻そう。
「その頃から北海道にも足を運んで、昆布の産地を見てまわるようになりました。昆布の質は浜によって、例えば湾の西側と東側では性質がまったく異なるのです。父からはよく『昆布の良し悪しは山を見ろ』と教えられました。それはちょうど畑の場所によって味が異なるワインに似ています。例えばロマネコンティのように限られた場所でしか採れない品質のものもある」
 昆布は代表的なものに濃厚な風味が特徴の羅臼昆布や、出汁を引くのに最も適した利尻昆布、利尻に似た上品な味わいの真昆布、出汁の他、昆布巻や野菜との含め煮などそのまま食べるのに向いている日高昆布などがあるが、収穫年によっても特徴が変化する。
 奥井は一九九二年には空襲で焼けてしまった蔵を再建し『蔵囲昆布』を復活させた。蔵囲は昆布を寝かせることで磯臭さや雑味、ぬめりを抜く技法で、敦賀で伝統的に行われていた。昆布は熟成が進むと、香気成分が変化する。多糖質(=ぬめり成分)が分解され、内部のアミノ酸と結合し、香り高く甘い味が生まれるのだ。十年以上熟成させた昆布で引く出汁はまるでワインのような淡い琥珀色をしている。
「蔵囲は質のいいものしか熟成に耐えませんし、なかにはロスも出ます。商売だけを考えたらあまりよい方法ではないのかもしれませんが、本当に質のいい昆布を提供したいと思ったら必要なことでした」
 収穫した日のうちに天日乾燥させた昆布で、さらに上質な昆布でないと熟成には耐えられない。蔵囲昆布は経営上のリスクが大きい。高額な昆布を何年も在庫として抱え、しかも気象条件によってカビが発生すれば商品価値はゼロになる。そこで奥井は昔ながらの土蔵では なく、温度湿度等の庫内環境を自動調整する近代的な設備を導入した。しかし、その近代的な設備に気づく人はいないだろう。昆布は藁で編んだむしろで覆われている。昆布 は呼吸をしている生き物なので、熟成には藁むしろが一番だそうだ。
 通常の蔵囲昆布は最 低一年、長いものは二年〜三年間、蔵のなかで熟成させる。伝統的な技法と近代的な技術 を融合させることで、奥井は蔵囲昆布を復活させたのだ。
「一番怖いのは煙です。昆布は呼吸をしているため、ぼやでも起きて煙を吸い込んだ途端 に使い物にならなくなります」
  蔵囲昆布が復活したのが九二年と意外と最近であることに驚いた。今、日本料理は以前 よりも味に深みを増しているのだ。やがて、奥井海生堂の名前は海外にも知れ渡るように なる。 「きっかけは二〇〇六年に内閣府の『ジャパンブランド推進委員会』からの要請でパリ日 本文化会館で講演を行わせていただいたことです。『昆布 その文化と歴史』という題で お話をさせていただいた後、集まったフランス人の方に試食をしていただきました。実は 受け入れられるか心配していたんですが、皆さんとても喜んでくださって」 一時期、昆布出汁の味は外国人には受け入れられない、と言われていたが、それはどうやら過去の話だ。そのような風評は、外国で一時期、低品質の昆布が流通していたことに起因しているのかもしれない。今ではフランスやイギリス、北欧やアメリカのシェフたちも当たり前のように昆布を使っている。
 二〇〇二年、大学の研究者らの実験で昆布の旨味成分であるグルタミン酸は六十°Cで一時間加熱することで最もよく抽出される、という結果が出た。また、鰹節の旨味成分は八十五°Cですぐに抽出されてしまうこともわかった。それまでの出汁を引く方法は昆布と水を鍋にいれ、徐々に温度を上げて沸騰直前に取りだし、鰹節を加えてふたたび沸騰したところで火を消す、というのが一般的だったが、この発見によってそれが見直されたのだ。
  家庭では昆布は水に浸し、三時間から一晩冷蔵庫に入れておくのがよさそうだ。それを温め、鰹節を入れれば出汁はすぐに引けてしまう。手間自体はインスタントと変わりがない。
「世界中にシーウィード(海藻)、ケルプ(昆布類)は一杯あるんですけど、我々がいう 利尻、羅臼、日高といった昆布は北海道近辺にしか生息していない。だから、そこが駄目 になったら代わりはないんです。そういう意味での危機感はあります」  温暖化にともなう海水温の上昇など昆布の今後には不安がないわけではない。ただ、奥井は昆布を食べてもらうことで、山もあり、海もある島国=日本を理解してもらえるのでは、と考えている。
「外国の方は昆布の文化的な歴史に興味を抱かれます。昆布は二年間で一生を終え、海に消えていきます。日本人はそうしたはかない生き物に自分たちの味覚をたくし、食文化を守ってきたのです」


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