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かんがえこと-14 12.9

12.4(火)

12月とは思えない陽気。二駅歩く。平日休みの予定にフェルメール展のチケットを買ったところだったのに、出勤になってしまった。しかたがないから、しかたがないけれど。


ストレスを感じる。チョコレートが食べたくなる。

気になるのは気づくのは私だけなのか。みんな寛大なのか。果たしてそれは寛大である事案かどうか。私は問いたい。


12.5(水)

二駅歩く。かんがえことして歩こう、と思うほど、何もかんがえられない。

いつもは赤信号でも通り過ぎてしまう、細い路地の信号で止まり、止まるたび、メモをとる。

今日もあたたかいけれど、どんよりしている。雨粒がおちてきたような気がして、空を見上げる。そこには空しかないのに、空を見上げてしまうのは、なぜだろうか。


12.6(木)

人としごとがしたい。それがPCしごとだとしても、顔の見える、誰かのためにやりたい。

そもそも、「接客の仕事」を選ぶとは思っていなかったのに。13年目にして今さらだけれど、苦手な私にとってはそれはむしろ対等に、自分じゃなくても人に接しられる「ツール」のようなものだったのかもしれない。今でも苦手はあるけれど、この「ツール」が本当の意味でも私を人に近づけてくれた。それがなかったら、私は永遠に人を見られないままだったかもしれない。


12.7(金)

本のタイトルを書いていただけなのだけれど。「恋」という文字から遠ざかりすぎていて、あとからみるとそれは「変」なのだった。


地元には帰りたい気もするし、帰りたくない気もするし、東京は、嫌いではない。ただ、休憩したいのだ、と思った。それはおそらく、仕事を、なんだと思う。東京で、仕事をせずに休憩、していられるだろうか。少なくとも私にはとても難しく感じる。


12.8(土)

出勤。ほんのひとときの、「犬」との逢瀬。


いつもぐるぐるかんがえ、もやもやし、それはかんがえる前よりももっと自分を迷わせていないだろうか。

それに対して、デザインとして一つの形にまとめるという行為は、私なりに、答えを出しているようなものなのかもしれない。あるいはそれによって、バランスをとっているのかもしれない。


12.9(日)

夢。大阪にいた。高架をたよりに駅をめざして歩くのだけれど足は錘がついたよう、体がまったく前に進まない。

目が覚めれば、やはり体が重い。そしてこの状態は、およそ気分が重いとき。


一度二度会っただけでもたれるイメージというのは、もやもやするけれど、それはまぎれもなく客観的にそう見えているということであり、もやもやしている時点で思い当たるところが自分にもあるわけで、受け止めるというか、「あ、」としばし立ち止まるときなのだろうか。


お世話になっているカフェに向かう。先日、本を4冊も買ってくださったという方と、偶然居合わせた。こうして届く相手が見えること、相手の声が聞こえること、こういうところに「店」の良さがあって。だから店をつくりたくなる。それは極論、本じゃなくても良いのかもしれないし。


しりたくなかったことは、しらないふりでいれば良いだけだ。

しらされなくたって、そもそもしらずに行われているあれやこれやなど、いくらでもあるんだから。

いくらでも。あるんだから。





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