クラーク像2

MBAとの出会い

こんにちは。Kamackです。今回のNoteでは、そもそも今回のクラウドファンディングを通じた起業のきっかけとなったMBA留学に至るまでの経緯を書いてみたいと思います。

自分の人生をこういう形で文章にするのは初めてで、かつ今までにない長文となってしまいましたが、お付き合いいただけると幸いです。

学生時代

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私は大学・大学院で情報科学を学んでいました。自分がやっていたのは大学時代は電子透かしのような画像処理技術、大学院からは自動要約や可視化といった文字列処理で、プログラムを書いては回してみるという日々でした。プログラミングは大学から始めたのですが、その才能は皆無でした。ただ、当時の就活市場ではプログラミングを学んだ大学生に対するニーズが高く、就職は比較的スムーズでした。

この間、24歳で大学院卒業するまで、英語に触れる機会はほとんどありませんでした。勉強したのは大学受験英語に大学の講義くらい。研究室に入ってからは英語論文を稀に読む程度で、留学、何それといった状態。TOEICは卒業時に確か560とかでした。

海外旅行に行った事は卒業までに2回ありました。が、両方ともパッケージツアーでフリーの日は1-2日あった程度。それでも1回目のシンガポール旅行(大学2年)の時には自分が発する英語があまりにも通じない事、相手が言っている事が何も理解できないという事で根暗族の私は2度と海外なんて行くかと思う始末でした。2回目は大学院の卒業旅行だったので意を決してタイに行きましたが、この時も現地の人とは積極的に会話をしませんでした。

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英語を学ぶきっかけ

英語を意識し始めたのは就職してからでした。某メーカー(ソフトウェア開発の事業部)入社後に会社が提供する英語教育で実質的に初めて英会話を勉強し、直観的に面白いからもっと話せるようになりたいのがきっかけ。この時なぜ面白いと思ったかは今でも謎ですが、今考えると下記の2つの要素があったように思います。
(1)同期のプログラミングスキルが高すぎて自分には到底敵わないと悟り、何か別のスキルを磨かないと、という焦りがあった。
(2)英語は当時全然話せなかったけど、それでも周りの同期と比べたらできる方だったので、これを伸ばしたいと思った。

その後の配属面談で、「英語を話せる部署に配属させてください」と面談のたびにお願いを出していました。その成果もあってか、米国をターゲットとして製品開発している部署に配属することができました。

さらにこの部署で良かったのは、一部の機能をオフショア開発していたため、インドのプログラマーの方々と一緒に仕事ができたこと。毎日1時間以上インドのエンジニアと仕様や実装の話をすることで、自分の英会話力が目に見えて伸びたとともに、自分の発音が順調にインド訛りになっていったのでした。

大きくなる違和感とその正体

ソフトウェアを開発して1年が経ったころ、ちょうど開発を3サイクルくらい経験した時に、薄々感じていた違和感が大きくなっていることに気づきました。それは、お客様がどのように製品を使っているか分からないまま製品開発をしてしまっているというものでした。この違和感はたぶんソフトウェアだけじゃなくて一般に製品開発をしている方々が感じられた経験があると思います。そして多くの方々は、お客様がどう使うかという事を推測、想像してモノづくりを続けているのだと思うのですが、私はこの気持ち悪さを解決しないままモノづくりを続けていくのが辛くなってきていました。

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部署には、米国に駐在している人、もしくは米国赴任経験がある方がいて、その人が上記のような仕様の責任を持つ事で開発者とお客様の距離を縮めていて、その方々からのフィードバックを元にモノづくりをしていました。その意味では、マーケットの声はその方々が拾ってモノづくりをしていたので、私の違和感は彼らが吸収していたのです。しかし、私はその時は、その人の言いなりになって盲目的に開発しているという気持ちになっており、海外に行きたい気持ちが日に日に強くなっていきました。

海外赴任を目指して

米国でモノを売っているのだから、米国に行ってお客様の求めているものや、どう使いたいのかが分かった上でモノ作りをしたい、という想いを持ってからは、上司との面談のたびに「米国に行かせてください」とお願いするようになっていました。私が5年目になったときには、「米国に行けないんだったら会社辞めます」というような事を言うくらい主張していたので、上司には相当疎まれていたものと思います。

この思いが通じたのか、5年目の後半に前任者が日本に帰ってくることになり、その後任として米国サンノゼに赴任できることになりました。この時は本当に嬉しかったですし、自分の努力が報われたと思った瞬間でした。

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ちなみに、この時はTOEICで800を超えるくらいの英語力でした。今思えば、海外で働くには恐ろしく足りない点数かつ英語力だったのですが、当時の日本企業で人事や上司に海外赴任を納得させるには十分な点数でした。

海外で働くということ

初めての海外赴任は当然ながら甘いものではありませんでした。インドエンジニアとの議論で鍛え抜かれた私のインド英語は米国人と議論するのには全く役に立たず、特に彼らの話を聞き取れず、持っていた英語に対する自信は無残にも砕け散りました。最初の3ヶ月くらいは本当に何言っているのか分からない中、すでに持っている製品の知識に頼って何とか会話を成立させて乗り切るというレベルでした。自分が作っていた製品のサポート業務というものだったのでそれでも何とかなっていましたが、そうでなければ本当に全く役に立たなかったように思います。

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3ヶ月くらいで慣れてきて話の内容が何となく分かるようになってきて、聞かれたことには適切に反応できるようになり、6ヶ月くらいを過ぎたころには会議でも自分から発言できるようになってきました。ただそれは、自分の関連業務に関してのみで、オープンな議論の場や、スモールトークなどでは依然として英語が高い壁となっていました。

妻との出会い

私が米国サンノゼに赴任してから半年が経ったころ、前回の記事から言うとようやく仕事が軌道に乗ってきて何とか回せるようになってきた時に、ちょうど同じ会社で日本から同じく米国サンノゼに赴任してきた妻と米国で出会いました。妻は付き合い始めてから3ヶ月で日本に帰ってしまったため、日本と米国サンノゼ間、時差16時間の遠距離恋愛を1年半経験することになります。そして、私が日本に帰ったタイミングで日本で籍を入れました。

私の人生はここから大きく動いたように思います。

新しいことを始める

妻と結婚してから、新しいことに挑戦する事はごく自然になっていきました。これは間違いなく妻の影響です。仕事もそうですが、私生活でも新しい事を始める事が楽しくなっていました。

結婚して1年目はそもそも結婚生活自体が新しく、家事分担で私は料理と家計担当になったので、色々な料理を楽しんでいました。日本に戻ってから比較的すぐに、インド出張を2回経験したのですが、私はインドが料理を含めて大好きだったのでインド出張のたびにスパイスを買い込み、インドカレーを作ったりしていました。この時のインド出張は大規模プロジェクトをまとめ上げるため、仕様の責任者として乗り込んだもので、開発が無事成功した際には嬉しさと共に安堵の気持ちが大きかったです。

結婚して2年目には、マラソンにはまり、年間で6回フルマラソンを走りました。ハーフマラソンなどを入れると、8回は走ったと思います。仕事上でも、新製品の立ち上げを初期メンバーとして関わる事ができ、米国在住のプロダクトマネージャと各開発バージョンのスコープやロードマップを、仕様の責任者として議論していました。この時は、公私ともに充実したと言える一年を過ごすことができたと思っています。

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そして結婚3年目に、私の一つの大きな転機となるJMECとの出会いがありました。

JMECコンサルプロジェクト

JMECというのはJapan Market Expansion Competitionの略で、日本に進出、もしくは日本市場の拡大を目指す外資系企業向けにコンサルをし、その成果を12チームの中で競い合うプロジェクトです。日本在住の方であれば、英語の要件(TOEIC 800以上、またはそれに準ずるスキル)を満たせば、選考はありますが基本的に誰でも参加可能です。英語が必要な理由は、参加者の半分は外国人なので、プロジェクトは全て英語で進みます。妻の友人が数年前にやってみてすごくよかったらしく、妻から紹介を受けて夫婦で参加してみる事を決意しました。

参加者は基本的なマーケティングやファイナンスを11月から始まるレクチャーシリーズとワークショップ(基本的には土曜日、丸一日)で学びます。レクチャーとワークショップは合計9回くらいあったように思います。その後、チーム分け、各チームへのプロジェクトの割り当てを経て、約5ヶ月の期間で実際に企業向けにビジネスプランを作り、プレゼンをします。各チームにはメンターやコンサルタントが付き、アドバイスをもらう事ができます。

私が参加した当時は12万5千円(今は15万円らしい)の参加費を払い、またクライアントも100万円(今は150万円らしい)のコンサルフィーを払い、そのお金でJMECは運営されています。当時はいい値段するなぁと思っていたのですが、今思えば相当に格安で、かなりの方がボランティアで協力しているのだと思いました。

このJMEC、スケジュールが良くできているんです。社会人で働きながらやる事が前提なのですが、プロジェクトの提出期限がゴールデンウィーク直後なんです。すなわち、ゴールデンウィークに死ぬほど働く前提なんですね。私のチームも多聞にもれず、ゴールデンウィークは毎日会ってビジネスプランを作りました。最終的には、ワードで80ページ強の提案資料を作っています。

チームメートは私(エンジニア)以外は日本人女性2名(マーケティング)、アイルランド人男性(人事)、フランス人女性(スタートアップ)の5名のメンバーでした。全然違う考えを持った人たちと同じ目的のために働くという刺激的な日々に、私は土日も忘れて没頭していました。

MBAを34歳で知る

JMECでの活動がどうやらMBAでやる事に近く、MBAのプレ体験のような位置づけという事を知ってからは、MBAに行きたい気持ちが日々募るようになっていました。すなわち、MBAというものを知ったのは恥ずかしながら34歳の時、という事になります。

そして、MBAについて調べれば調べるほど厳しい現実を突きつけられます。

最初につまずいたのが英語要件。調べてみると、TOEFLというテストで100点以上取ることが必要という事。この時私のTOEICは920ありましたが、初めてTOEFLを受けた結果は65/100点。目指すべき到達点までの道のりの長さに眩暈がした記憶があります。

さらに、留学にかかる費用。自分が行きたいと思った2年制の大学は、授業料だけで1,000万円以上、2年間の生活費を入れると合計2,000万円は必要。さらに、給与がなくなる機会損失を考えると、3千万円後半という巨額な投資をする必要があるという事が分かってきます。

さらには、私の当時の年齢である34歳では、一般的にMBAには遅すぎるという事。特に米国のトップスクールには受験時には合格しえない年齢になっているという事に気づかされました。

しかし、調べていくと、アジアや欧州の学校であったり、米国でもMITやStanfordのような有名大学がミッドキャリア向けのプログラムを提供しており、そのあたりであれば合格できる年齢である事が分かってきます。そして、この時に今自分が通っているIESEという学校を知る事になります。

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自分の会社でも休職してMBAに行った方と知り合いになる機会がありました。その方からMBAでの体験話を聞いていくと、学費が安く期間が1年と短い大学がある事を知り、費用面で現実解が見えてきたため、ますますMBAに行きたいという気持ちが膨らんでいきました。

また、国内でもGlobisがPart-time MBAという仕事をしながらにして、外国人と一緒に英語で学べるコースがあるという事を知り、MBAを目指すことが自分の中では完全に現実のものとなりました

ここから実際にMBA合格までの道のりも長かったのですが、それはまた別の機会に書こうと思います。

改めて振り返ってみると、いい出会いと行動のきっかけに恵まれた人生だと思います。しかし、その一方で、面白そうと思ったことに挑戦してみたことが今につながっているという事を実感させられます。今回のクラウドファンディングを通じた起業についても面白そうと感じて挑戦したことなので、きっとこれがまた新しい出会いや面白い事につながっていくと信じています。

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