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大隈重信と知的財産権

こんにちは。

 大隈重信といえば、佐賀藩出身で、弘道館という学校で行われていた詰め込みエリート教育に反発し、騒ぎを起こして退学になったものの、後に早稲田大学の総長になったというところにすごみがありますね。

 さて今日は、大隈重信と知的財産権というテーマでお話をしたいと思います。大隈重信が諸外国との間で、不平等条約の改正に向けて交渉をしていたことは知られているのですが、そこに知的財産に関する議論がなされていたことはあまり知られていません。

 実際、1894年に日英通商航海条約が締結されたときに、この条約の中に、日本が工業所有権の保護に関するパリ条約と、文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約に加盟するということが規定されていました。つまり明治政府は当時、知的財産権の保護について外国からのさまざま圧力を受けていたのです。というのも、当時の日本ではアメリカの英語の教科書が日本で無断複製されて公立学校の教科書として使用されていたり、イギリスの会社が販売する石鹸のパッケージに描かれたアルファベットを真似して日本人が同じような商品を販売していたり、神戸でドイツビールの空瓶に別のビールを入れて販売していることなど、大使館を通じて様々な苦情を受けていました。これに対して、大隈重信外務大臣は、外国人に日本の法令を遵守する義務がない以上、日本で商売する外国人が商標に関して特別の保護を受けながら日本の法令に違反したとしても罰せられることがないというのは不公平であるとして、行政権を発動しての取り締まりを拒否していました。
 するとイギリスは、「イギリスの製造業と競争して、不正に商標を付された日本の商品が清国など他国において大量消費される危険性を回避するためにも、不平等条約改正に署名する前に著作権と工業所有権に関する国際同盟について日本の支持を確保しておくことは重要である」という態度をとるようになりました。しかし1889年10月18日、大隈重信は「大審院に外国人裁判官を置いてもよいとする代わりに不平等条約を改正する」という方針に反発していた来島恒喜によって馬車に爆弾を投げ込まれ、右足に大けがを負いました。これにより、大隈重信は外務大臣の職を退くこととなり、日本とイギリスとの交渉も突然終焉を迎えることになりました。

 それでも、大隈重信が不平等条約を改正をするまではパリ条約やベルヌ条約に加盟しないと拒否していたからこそ、その後にイギリスが条約改正と両条約への加盟を交換条件にしてきたと言っても過言ではないでしょうね。

 では、今日はこの辺で、また。


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