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こんにちは。

 来日する外国の要人を守るために、警察官が日頃から要人警護の訓練を行っているのですが、訓練の様子を公開した動画を見ていると、SPのテーマ曲や、踊る大捜査線の曲が使われていることで胸が熱くなりましたね。

 さて今日は、来日したロシアの皇太子が警察官により襲撃された「大津事件」(大判明治24年5月27日法律新聞214号27頁)を紹介したいと思います。


1 どんな事件だったのか

 西南戦争に参加し、勲章をもらっていた津田三蔵は、三重県警察に採用されたものの、仲の悪い同僚に対して親睦会で暴力をふるったことでクビになりました。その後は、滋賀県警察に採用され、真面目に働いて功労勲章を2度にわたって受賞していました。ところが1891年、ロシア皇太子ニコライが日本に遊覧しにきたときに、ニコライと西郷隆盛が日本に仕返しに来るといった噂を信じ、ニコライの随行員が西南戦争の記念碑に敬意を表さなかったことなどに怒った三蔵は、守山警察署から警備の応援に抜擢されたの機に、ニコライの警護中に突然サーベルを抜いて斬りかかりました。ニコライに傷を負わせた三蔵は、さらに斬りかかろうと飛びかかったときに、人力車を引いていた向畑治三郎と北賀市一太郎の応戦により、ニコライは窮地を救われ、その後に駆けつけた巡査により三蔵は取り押さえられ、皇室に対する罪で起訴されました。

2 外交問題に発展

 明治天皇はすぐさま京都に向かってニコライを見舞い、学校も謹慎の意を表して休校したり、京都府庁の門前ではニコライに謝罪の遺書を残して畠山勇子が自決したりするなど、日本では報復でロシアが攻めてくることに戦々恐々としていました。
 外交問題に発展することを恐れた政府は大審院に対して、皇族に対する罪を適用して津田を死刑に処することを強く要求しました。これに対して大審院長の児島惟謙は、刑法上の皇族に対する罪は外国の皇族には適用されないとして、謀殺未遂罪により無期徒刑(懲役)が妥当であると主張しました。
 政府は、事件を担当する裁判官7名に対して説得をつづけ、その結果5名が皇室に対する罪を適用することに賛成しました。すると、すぐさま児島は大津に向かい、3名の翻意に成功し、皇室罪適用に賛成するのは7名中2名となりました。その後も政府は、児島と裁判官の説得を続けました。

3 大審院の判決

 津田三蔵に対する検事総長の起訴により審理を遂げたところ、三蔵は滋賀県警察の巡査の身分であることを顧みず、今回ロシア皇太子殿下が我が国に来遊しにきたのは、通常の漫遊ではないと盲信して個人的に不快の念を懐いていたところ、明治24年5月11日に、殿下が滋賀県に来遊してきたときに、三蔵は殿下を殺害しようと思い、その時機を窺っていたところ、三蔵が大津町で警護しているときに殿下がそこを通行し、この機会を失えば再び目的を達成する時期はこないと考えて、帯剣を抜き殿下の頭部へ2回切りつけて傷を負わせた。
 この事実は三蔵の自白、押収した刀などから証拠として十分である。これを法律に照らすと、その行為は謀殺未遂の犯罪であり、よって三蔵を無期徒刑に處する。

4 裁判官の判断の独立

 今回のケースで裁判所は、ニコライを切りつけて皇室罪で起訴された津田三蔵に対して、文言上、外国人の皇族に対して皇室罪を適用することはできないとして、謀殺未遂罪により無期懲役に処するとしました。
 児島惟謙は、立法や行政から司法権の独立を守りきったと評価される一方で、裁判官1人ひとりが同僚や上官からの干渉を受けないという裁判官の判断の独立を自ら侵害していたとも評価されています。その後、児島惟謙は花札賭博で懲戒裁判にかけられ、証拠不十分により免訴になったものの責任を取らされる形で大審院を辞職しています。
 またこの事件でニコライの窮地を救った人力車夫たちは、ロシア軍艦に招待され、後に勲章と2500円の一時金、毎年1000円の年金を送られたことからすると、身を挺して人の命を守ることに対する評価は世界共通のものといえるでしょうね。
 では、今日はこの辺で、また。 


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