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美濃部達吉銃撃事件

こんにちは。

 兵庫県高砂町出身の東京帝国大学憲法学者の美濃部達吉が天皇機関説を唱えた、ということを聞いたことがあるかもしれませんが、その内容について詳しく知ろうとすると、よくわからないなあと感じる人も多いかと思います。しかし、日本の歴史、日本の国の仕組みを理解する上で、とても重要なキーワードです。できるだけわかりやすく解説してみたいと思います。

 まずは、明治時代にタイムスリップした気持ちで考えてみると良いでしょう。世界では西欧列強による植民地が広がる中、江戸幕府による政治体制が終了し、1889年に国会や選挙について定めた大日本帝国憲法が、天皇が国民に与えるという形で発布されます。ここから、天皇が国を治める権限を持ち、政府が国民をまとめるという仕組みが作られました。
 大正時代に入ると、薩摩・長州など特定の藩出身者が実権を握って天皇がワンマンで政治を行うというよりも、議会や政党を中心に政治を行っていくべきだという考え方が広まります。このとき国家の中には、ある程度考え方がまとまった議会や内閣などの機関があり、その中で天皇が最高機関だと位置づけたのが美濃部達吉でした。

 ところが、軍国主義が広がると、天皇を絶対視する思想が広まります。すると1935年に、菊池武夫議員が貴族院本会議で天皇機関説を批判すると、軍部や右翼から美濃部への批判が集まります。これに対して美濃部は、議会の中で「今会議において、再び私の著書をあげて、明白な反逆思想であると言われ、謀反人であると言われました。日本臣民にとり、反逆者、謀反人と言われるのはこの上なき侮辱であります。いわゆる機関説というのは、国家それ自身を1つの生命があり、それ自身に目的を有する恒久的な団体、すなわち法律学上の言葉をもって申せば、1つの法人と観念いたしまして、天皇はこの法人たる国家の元首の地位にありまして、国家を代表して国家の一切の権利を総覧し、天皇が憲法に従って行われる行為が、すなわち国家の行為としての効力を生ずるということを言い現すものであります」と弁明し、理路整然とした演説に議会は静まりかえりました。

 それでも、美濃部の著書は発禁処分となり、また不敬罪の疑いで検事局の取り調べを受けました。さらに1936年には、美濃部の天皇機関説の内容に憤った右翼団体に所属する小田十壮に銃撃され、右太ももに重傷を負います。

 逮捕、起訴された小田十壮に対して、東京地方裁判所(人物往来48号56頁)は徴役8年の判決を下しました。これに対して小田が控訴すると、第2審の東京控訴院では、弁護人林が「被害者美濃部博士の供述調書によれば、右足に負傷したのは空地の鉄条網を越えてからのことになっている。然るに、小田が7発の弾丸を撃ち尽したのはその以前、玄関から表門に至る間であった。さすれば博士の太ももを撃った者は別人であらねばならぬ」と主張したことから、東京帝国大学で発見された弾丸と小田が犯行に使用したピストルとの対照鑑定が行われることになった。すると、銃腔の中に刻まれた螺旋と、発射の際に弾丸に刻まれた螺旋の痕跡とでは、その巻き方が異なることが判明し、小田に懲役3年の判決が下されました。

 美濃部に重傷を負わせた犯人は未だに不明とされています。美濃部は戦後も、GHQによる憲法改正作業に対して、占領軍は国家の根本規範を改正する権限を有しないという立場を崩さず、国民主権に基づく憲法改正は「国体変更」であると、憲法改正案を審議していた枢密院の中でただ1人、反対の意見を述べていました。
 日本の歴史や日本国憲法を理解する上で、美濃部達吉という気骨の法学者について理解を深めてもらえると幸いです。

では、今日はこの辺で、また。


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