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プロ格闘家…?

大久保ちゃん

太志朗がデビューすると今度は大久保ちゃん(大久保一樹)がリングスでデビューすると言う話になっていた。
大久保ちゃんは自分よりも年下だけど一年くらいU-FILEでは先輩で、大人しいけど変わった男だった。
ウェイトをしっかりやるタイプで、体格的には、がっちりしているのだが正直強いかと言われると当時の自分から見ても、そうでもなかった。
大久保ちゃんは田村さんのお墨付きで出定が決まったのだが俺的には大久保ちゃんで大丈夫なのか心配だった。
そもそも当時、大久保ちゃんは総合の練習はしていなかったと思う。

大久保ちゃんどうやって戦うの?と聞いたら「●?⊆》○∮♂@だと思うんですよ。」
何を言っているのか意味が解らなかった。
そのような状態なので、とりあえずクラスの前に時間が合えば総合の練習をしてみようと言う話になった。

翌週、仕事がたまたま早い時間に終わったので大久保ちゃんとオープンフィンガーを付けて総合のスパーをしてみる事になった。
総合とは言えリングスのKOKルールなのでグランドパウンドはナシである。
すると田村さんが受付の中から出てきて我々の練習を見守る状態になった。
総合のスパーに関しては、俺や太志朗は会員の中で一番やっていたと思う。俺は試合に出たいと思っているわけでは無いが田村さんに成長している事、そしてU-FILEの中では強い方だと見せれるチャンスだと思った。スパーが始まれば案の定、大久保ちゃんをMMAの技術で翻弄する事が出来た。

写真左がちょっと後の大久保ちゃん

田村さんは驚いた様子で「上手いね〜」と自分を褒めてくれた。
この一言がとても嬉しかった。
一年に渡り練習に休まず通い、土日も長い時間ジムに入り浸りひたすらにやり続けてきた。
入会当初、田村さんに総合はレスリングあって難しいからキックに出ない?と誘われた経緯を払拭出来た。
言われた事しかやっていない大久保ちゃんと自分とでは差がある事は解っていた。
スパー後、大久保ちゃんにはいろいろアドバイスをした。
U-FILEの選手に勝って欲しいと言う気持ちは揺るがない。セコンドもする事になった。

アマチュアコンテンダーズ

リングス以外にも佐々木(恭介)や悟郎ちゃんは当時ルミナさんが活躍していたコンバットレスリングにトライしていた。

佐々木が入賞したコンバットレスリング


前年の末くらいから皆が練習して試合に出ると言う雰囲気がジム内に流れ始めた。
正直なところ俺は試合をしたいとはこの時期には思ってはいなかった。
ファンの時間が長すぎてリスペクトが大き過ぎて俺みたいな現場作業員がリングに上がったって大したパフォーマンスは出来ないと勝手に決めつけていた。
練習時はアグレッシブなのに試合にエントリーすると言う事に関しては腰が重たかった。
そんな時にアマチュアコンテンダーズと言う大会が開催され参加選手を募集していると知った。

あまり乗り気ではなかったけど周りにビビって試合をしないと思われているのではないか?とか、セコンドで偉そうな事を言ってるのにお前はどうなんだ?と誰に言われた訳でもないのに自分を問い詰めたり、クヨクヨ悩むくらいならエントリーしてしまえと最終的には思って申し込む事にした。
試合好きの太志朗も一緒にエントリーをした。
3/18(日)ちょっと肌寒い感じだった。我々のジムは登戸なので登戸駅から南武線で川崎方面に向かった。
尻手駅に着くと10分ぐらい歩いて会場となる和術慧舟會タイガープレイスに到着した。
コンテンダーズは本戦が格闘技マニア達に人気があったので第一回であるアマチュア大会も結構な参加者がいた。
前日まで現場仕事をしていた俺が今日は裸で試合をすると言うのが不思議な感じだった。
当日になって対戦相手を知るシステムだ。
Hさんと言う方が対戦相手だった。セコンドに来ていた佐々木が俺の対戦相手を探す。
相手がどの人か解った佐々木が「長南さん相手ヤバいの着ていますよ」と俺に言う。
相手の方は当時はまだ珍しかったアンダーアーマーのラッシュガードを着ていた。
U-FILEにラッシュを着ている人はまだいなかった時期だ。
そんな時代背景。俺は裸で試合するのだが腕にはトライバルのタトゥーが入っていて、100人ぐらいいたと思われる会場の中で墨を入れてるのは俺以外では1人しかいなかった。
今は入れ墨ファイターは結構多いのだが、この頃は非常に少なかった。
試合慣れしている太志朗は先に試合をして難なく勝っていた。

自分の番になった。
レフェリーは前年度のパンクラスネオブラ優勝の星野勇ニさんで、星野さんはコンテンダーズで上山さんに勝っていてその時のセコンドに俺が付いていたと言う経緯があった。
試合が始まるとグラップリングマッチなので勿論組んだ。
自分はレスリングがそんなに出来ないので全てスタンドの関節から入る傾向がこの頃はあった。
この日は何となくアームロックの形を作り引き込む形で下になった。
相手のHさんは手をロックして耐えていた。
俺は現場のフルパワーで腕を捻り上げるとロックは外れHさんはタップをした。
夢中でやったのでHさんは痛かったのではないだろうか?
少しプレッシャーもあったので勝ててホッとした。
帰り道は太志朗が「長南さんヤベぇっすよ。タトゥーも入ってるし、一本で決めるし格好良いですよ」と自分も一本で勝っているくせに俺をヨイショする。
俺はノーダメージで終えたはずなのだが一気に力を解放し過ぎて肩に痛みを感じていた。時間が経つに連れて痛みは大きくなった。
今であれば筋を痛めてたとか解るし、アイシングをするのだが、この日の俺は痛みを堪えて何事もないよう周りに振る舞った。
翌日の仕事も朝から痛みを耐えながら誰にもこの事は言わずに過ごして、月曜の夜はジムが休みなので体を少し休めた。
今後、働く上で格闘技と怪我と言うのが大きな課題になっていくとはこの時は思ってもいなかった。
追伸 アマチュアコンテンダーズを書くにあたって試合の記録がネット上に無く、恐らくタトゥーを入れた正月からデビューする5月までの間のどこかだなと思っていたら、たまたま対戦相手だったHさんからメッセンジャーで「アマチュアコンテンダーズで試合した者ですけど覚えてますか?」と友達申請が届き、試合の日時はHさんに聞きました。凄いタイミングで驚きました。
Hさんありがとうございます。


それから2日後の3/20(火)
仕事を病院に行くとか嘘を言って早退した俺は後楽園ホールに向かった。
リングスバトルジェネシスで俺にとっては2度目のセコンドとなるが大久保ちゃんは判定で勝利した。
とても嬉しかった。太志朗が負けた時はとても悔しかったけど練習仲間の勝利は嬉しい。

しかし同大会で上山さんが和術慧舟會の新鋭、江宗勲にアームロックを決められ破れてしまった。
結構体格差もあったのだが腕は180°回され結構な怪我をしていたのだがそれでもタップをしない上山さんは単純に凄いと思った。

プロデビューへ

コンテンダーズで勝利した事によりより一層、総合の試合をするべきだと周りに言われるようになった。
確かに会員同士の練習では俺が仕切る事が多くU-FILE会員の中ではリーダー格になってきていた。
上山さんに「長南君、これに出ない?」と言われたのが5/5(土)2001年ネオブラッドトーナメント予選と言う大会だった。
パンクラス?U-FILEなのでうちはリングス系だとばかり思っていたから予想外だった。
ネオブラッドトーナメント
2000年の優勝はアマチュアコンテンダーズでレフェリーをしていた星野勇ニさん。
1999年は美濃輪育久さんがオール一本勝ちで優勝したのが衝撃だった。
その大会が予選から行われると言うのだ。
言われたからには腹を括ってやるしかないと思った。
じゃあプロフィール写真送らないといけないから写真を撮るよと上山さんに言われた。
時代背景的に携帯にカメラは無かった。写るんですも沢山使われていた頃、写真を撮ると言う行為に慣れがなかった。
ジムの閉館間際に裸になって構えろと言われる。
俺は恥ずかし過ぎて笑いを堪えるのが必死だった。
そして撮ったこの写真が記事見出しの写真だ。

この時期くらいから背の高い見慣れぬ男性がジムに出入りするようになる。
その人は上山さんとよく話していたし田村さんとも話していた。
クラスにも参加するのだがどう見ても動きは素人で格闘技経験者ではなさそうだ。
この男、木下雄一さんと言うそうだ。

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