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河出書房世界文学全集レビューその③ 瑞々しき大陸アメリカ、そして爛熟の地フランスの作品について。

 2012/8/8にアップしたやつ。

 今年の3月から仕事を始めたのですが、その前に読んだものです。
 もうすごく昔のことのようだ。って言うか、忘れた。恥ずかしながら記憶の海の底に沈みました。
 自分の好きな作家に中上健次と言う人がいて、この人の初期の作品は、紀州と言う風土と分かちがたく結びついて、太古の昔から営まれてきた土地と血と人の生活を、ものすごい密度の文章で描いており、私はただ、「岬」や「枯木灘」のページを繰っては、こう言う文章を書ける人はもう日本に現れないだろうな、とその文字の羅列を切ない思いで眺めているわけですが、その中上健次が大いなる霊感を得たと言われているのが、このウィリアム・フォークナーと言う作家の作品群だと言うのです。
 アメリカ南部の架空の町、ヨクナパトーファを舞台にした一連の作品は、「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれ、神話を持たない開拓の民たちが大地に根を下ろし、栄え、やがてほろんでいく様を、まさに「サーガ」的な視点で描いている、と言われています。私は本作しか読んでない(挙句の果てに忘れた)ので、そんなwikipediaの孫引きみたいなことしか言えなくて申し訳ないのですが。
 滾る野心を、秘めることなく周囲にぶちまけ、巻き込んで行く1人の男と、彼の血を引く者どもの葛藤と言う構図は、確かに中上健次の「紀州サーガ」にも見受けられるものです。
 まだ若く、瑞々しくさえあった開拓時代のアメリカ。南北戦争の時代のアメリカ。最近映画でここらへんの時代の作品をよく観ているのですが、もしかしたらこの本を読んだことも少しは関連しているのかもしれません。
 でも、もう大体忘れました。脳味噌つるつるすぎる。

 若い大地に根を下ろした開拓者の末裔である作家が、老成した作品を書きあげるその一方。
 人類の歴史と同じくらい昔から、人々が国を作り、互いに殺し合い、征服しあい、王家と王家は契り、貴族が芸術家を育て、キリスト教が発酵しまくって、何百年もののバルサミコ酢みたいになってる、そんなイメージを私は勝手に欧州に抱いています。あながちそんなに間違ってもないと思うのです。しかしながら、そんな文化圏でも、若者は常に若者であり、その感性は繊細で、やわらかなのだと感嘆した1冊が、本作であります。
 「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しい時だなんて誰にも言わせない。」の冒頭の一文があまりにも、あまりにも有名なニザンの“アデン・アラビア”。その文章は、皮肉でも反抗でも無く、ただ、所謂国家的選良として、国に育てられ、知識を詰め込まれている自分への居心地の悪さであり、疑問の発露ではないかと思うのです。諾々とエリートとして大人になって行こうとする同窓生や象牙の塔の中で学問に耽溺する教師たちへの違和感がやがて、自分がここに─フランスに─居る理由を探すための、フランスからの一時的撤退、つまりアラビアへの旅に繋がって行ったように思います。
 体裁としては、旅立ち~旅路~目的地での滞在~帰路、と言う流れを持った旅行記なのですが、旅行記と言うほどのものではありません。彼がアラビアと、アラビアにじわじわと染み出しているヨーロッパ的な…資本主義的な…もの眺めつつ描く、訪れた土地の描写は、ニザンの思考の奔流の修飾語程度のものです。
 古代ギリシャやらキリスト教関係やら、つまり欧州の知識人が持っていてしかるべき引用や比喩が非常に多く、東洋の凡人は読むのに苦労させられます。しかしながら、それを我慢して読み続けて行くと、ニザンが旅の結末で見出したものを語る最後の4章が激烈に面白くなります。彼の決意表明。出来上がりつつある近代への「否定」。Non,Non,と叫びながら「NON」と書かれたポストイットをそこらじゅうに貼って歩くような、既存の価値観全てに挑みかかるような、新たな知識人の姿をそこに見ることが出来ます。
 ロックンロール。アデン・アラビア、めっちゃロックです。

 もう一篇は、ルオーの「名誉の戦場」。彼の自伝的5部作の、最初の作品であり、彼の処女作でもあります。処女作にしてゴンクール賞受賞。平野啓一郎かと。
 自分の中の野獣のような知性を持てあましまくっている「アデン・アラビア」とは全く別の世界がそこにはあります。世界の中心・パリから遠く離れた、フランスは下ロワールの田舎町。小さな街での、“ぼく”のおじいさん、おばあさん、マリーおばちゃんの人となりが描かれていきます。
 「名誉の戦場」と言うくらいなので、てっきり戦争の物語かと思って、私は文章を追い続けるのですが、待てど暮らせど戦場は出て来ず、ただただ、ルオーの綴る、色彩豊かな世界に魅せられます。
 この作品は本当に素晴らしい。何が素晴らしいって、文章が素晴らしい。おじいさんの運転するおんぼろのシトロエンにまつわる序盤のエピソードだけで、おじいさんを大好きになってしまいます。そんな愛情に溢れた視線と、景色やそこに佇む人物の輪郭を捕らえ、スケッチするかのように描き出す、筆致の確かさ。ルオーの力量(と訳者の力量)に感嘆させられます。
 その優しい流れは、マリーおばちゃんの体の秘密が明かされるのと同時に不意に断ち切られ、マリーおばちゃんの弟たちの話の幕開けと共にがらりと様相を変えます。ジョゼフとエミール、2人の若者の死が語られ、小説の前半の牧歌的な風景は見事な伏線としてそこに蘇り、そして、物語は終わります。
 読み進めていた私はあっけにとられ──それはまさに、ゲリラ雷雨に当たって濡れネズミになったかのような不意の突かれようで──否応なく、マリーおばちゃんと、おじいさんと、おばあさんの喪失を共有させられ、本を閉じるのです。
 そして、背表紙の文字、本作のタイトルを、再び、この小説を読む前とは全く違った思いで眺めることになります。 
 いや、見事でした。素晴らしい。ああ、本当に素晴らしかった。
 他の作品も是非読みたいです。


 仕事が始まって全く本を読む時間が取れなくなり、「これはヤバイ」とぼっちで弁当を食べながらちまちまと読書をするようになりました。
 時間はかかると思いますが、これからもこの世界文学全集を読み進めて行くのが楽しみです。

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