ESEなSE

だいたい24年くらい前、エセSEとして派遣会社に就職した。

エセな理由は後述する。

地方では有名なソフトウェア会社に出向で入れると言うことで超就職氷河期のなか、やっとの思いでシステムエンジニアを企業に派遣する会社に就職した。

今と違って人手不足で困ってる会社はそんなになかった。会社を選び放題な今が羨ましい。

さて、配属後、SEとは? 的な本を読まされ、分厚いわけがわからないマニュアルも読まされた。

今で言うLinuxのOSを作っているイメージがいちばん近いが、そんなことをするところに配属された。

寝るか寝ないかを試されているのではないかを疑うようなマニュアル読みと睡魔との戦いの日々が数日続いた。

今から思うとアレは全く意味のないことだったと思う。

最初は仕事には参加してるが、はっきり言って何をやってるのか全くわからなかった。先輩の言ってる単語をひとつ残らずメモして後で質問しまくっていた。

配属されたところは天才的な人が1人居て、C言語で作るアルゴリズムについて他の人と壮絶なやり取りが行われていた。その天才が自分の思いが通らないと泣いてしまうほどのやり取りである。

新人を入れるには到底そぐわないところだったように思う。

これからちゃんと仕事できるのかと思っていたが、数年経つと何とか形にはなっていた。時の流れと自分の対応力に驚いた。この対応力が後々、不幸への道に導いてくれたわけだが。

対応力を見せると色々なところに引っ張られる。
火が付きそうな案件に立て続けに配属される。

今度は、ホスト系だ。巨大なコンピュータですよ!的な図体のコンピュータのミドルウェア開発だ。
旧石器時代のCOBOL開発である。今までの経験はさっぱり使えなかった。考え方がまるで分からなかった。

配属されるとずっといつも忙しい。派遣先の社員よりも長く会社に居る日々が続き、突如として自らの身体が壊れた。

頭の中にフローチャートが毎晩出て来て寝られない。一度寝ると朝は起きられない。

課長に相談して精神科医にかかることになった。

精神科に行くと、頭は疲れてるが身体は疲れてないから寝られないのだと言う。

そう言うことならと夜中歩くことにした。なぜ夜中なのかと言うと、仕事が終わって帰宅すると23時を過ぎるためだ。

雨の日も暑い日もひたすらに歩いた。その結果、寝られるようになった。それとともに痩せた。4ヶ月で15kgも体重が落ちた。これには驚いた。変な病気かと思って一応病院で検査を受けたが、何ごともなかった。ただ単に歩いて痩せたのである。

壊れた身体が元に戻って、それほど忙しくないところに配属替えされて普通に仕事をこなせるようになった。

このままぬるま湯に浸かっておこうと思っていたのに配属されていたところの仕事がなくなり、解散となった。

代わりにすぐさま新たな火の海に投下された。

またイチからやり直しである。
今まで培った経験はほぼ使えない、Web系のJavaServlet開発だ。

ここも深夜まで仕事をする。毎日てっぺんを超える。
また身体が壊れる気がしたが、なんとか踏み止まった。サービスインの前日は徹夜作業だった。残業続きでの徹夜は死ぬ気がしたのを覚えている。

Web系は開発段階が終わると一挙に人員が整理されチームが解体される。
即座に次の重たい開発に配属される。

次はJavaServletではないWeb系だ。これが独特過ぎてまた訳がわからなかった。
この開発は仕様決定が遅れに遅れ、締め切りの1ヶ月前から一切休み無しの残業フルコースだった。1ヶ月の残業時間は180時間にのぼった。ちょっと死にかけた。これはリーダーと発注元の担者がクソ過ぎたせいであった。
こっちは残業180時間なのに、発注元の担当は二、三度しか顔を出さなかったのである。信じられない担当であった。


1ヶ月後、なんとか死なずに済んだと思っていたら、今度はデータベースとやり取りするミドルウェア開発のところに配属された。
ここも難題を抱える仕事だったが、またイチからである。
まず、データベースから勉強する。言語はC言語。やっと振り出しに戻った感じがした。
しかし、今度は東京に出向である。
と、思っていたら案件がなくなった。

仕事が無ければまたすぐ別のところにまわされる。

次はもっと大規模なデータベースの内部とのやり取りも含めたデータベースの複製を作る案件である。
これはひとつ前の仕事が使えるかと思っていたが、さっぱりだった。
またイチからである。

それはそれは相当な苦労の末にやっと完成した。
内部ではものすごいステップが走るのに、コマンドは数個であった。何に使うんだろうと不思議でしようがなかった。

やっと開発が終わったと思っていたらそれを元にした、うわ被せのシステムを構築するとのことで自動化が求められた。
コマンドにコマンドを被せる。
もう自分の頭がうまく制御しきれなくなってきた。
またやっとの思いで作ったのに、また、クワッド化するぞと言い出して、データベースが4つに複製されるのである。
とうとう、自分の対応力ではどうにもならない案件が湧いて出てきた、と思っていたら、開発リーダーが別の仕事で出向して居なくなった。リーダーはものすごく尊敬できる人だった。まぁちょっと責任感がなかった所もあったけれど。
そのリーダーしか知らない内部仕様が沢山あった。それでもリーダーは居なくなり、代わりの何も知らないリーダーとすげ替えられた。派遣の自分が裏リーダーになってしまった。
そんな中、追加でとてつもないほどのステップをコーティングした。主に異常系である。
コーティングした量に対して、テスト時間が全くと言って良いほど足りなかった。
新しいリーダーに相談しても、終わったことにする、であった。
コイツはクソでどうしようもないバカか?と、新しいリーダーに対して思った。
テストされないままにリリースされる製品。
この世の終わりである。と、思ったものの、実稼働してもバグはあまり出なかった。もしかして天才かも?とも思ったが、まぁ気のせいである。

この新しいリーダーの名言がある。

お前の代わりはいくらでも居る

と、面と向かって、何の脈略もなく平然とぬかすのであった。それはお前のことだろうと思いっきり思ったが完全に無視してやった。

その後、そのリーダーは社外に島流しにあった。いい気味である。

次の配属はついこの間まで自分達が作っていた製品のサポートや追加開発のところだった。

発注元からの無理難題が降って湧いてくるし、仕様上、どうしようもないこともあったり、通称仕様なバグを隠し通すこともあった。
同じ仕事をする仲間はお飾りなリーダーと、神経質なメンバーと自分の3人であった。
3人居るのに2人で3人分の仕事をしていた。キリキリと胃に穴が開きそうだった。


ここでやっと始めのエセSEの意味を説明したい。

ずっと携わってきたのは発注元に言われたものを外部仕様書通りに作る仕事だ。
内部は好きに作って良いけど、ちゃんと外観は指定した通りに作ってよと言う厳しいお願いをずっと聞いてきた。

個人的にはシステムの運用も考えながら、顧客とのやり取りで仕様を煮詰めていくことを仕事としている人をシステムエンジニア=SEだと思っていた。今もそう思っている。
だから自分がやってきたことはプログラマの域を出ていないことばかりだったと思っていた。
そう言った思いから自分のことをずっとエセSEと思っていた。
これには反論もあるだろうし、捉え方には個人差があるかもしれない。あくまで個人的な見解と思って欲しい。

こんな考えで20年も派遣で頑張っていたが、ふと、これからもこれが続くと思うと疲れた。

そこで思い切って会社を辞めてやった。
あと2年で勤続四半世紀を迎えるところであった。

君の名は が公開され、欅坂46がデビューし、
もうすぐ
逃げるは恥だが役に立つ
のテレビドラマが始まろうとしていた時だった。

もう逃げて良い頃だったと思う。

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