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死後の世界は存在するのか

 昨日から慶應通信の夜スクが始まりました。今年は宗教学と論理学を履修します。宗教学は以前から非常に興味があるものだったのですが、今年履修することができました。

 さて、昨日が宗教学の講義でした。先生の言葉で印象に残っているものそれは、

信じるか信じないかで全てが決まる

ということでした。神が存在するとかキリストが神の子だとかなどは客観的な証明などできないものである。それは信じるか信じないかが全てを決めるということなのです。

 以前より僕は作家の佐藤優氏の著書に惹かれ、神学や哲学に対して深い興味を抱いていた。佐藤氏はキリスト教徒なのであるが、佐藤氏もキリスト教の信仰の下に思考や判断をしているとおっしゃっていた。信仰のない人には信じられるものではないという断りを入れつつ、キリスト教徒としての思考や価値観、判断をされていた。その話があったため、この言葉が琴線に引っ掛かった。

 要するに信仰の有無が分岐点であるということなのです。このことについて誰もが最初は鳩に豆鉄砲だと思います。これは感覚の問題でもあるからです。

 話は戻って死後の世界があるかどうか。これも信じるか信じないかという話です。死後の世界から還ってきた人なんていないからそんなことはあるかどうかなんて正直分からないのです。

東大病院救急部長が語る「死後の世界」〜人間は必ず死ぬ。しかし…
数多の最期を見てきた医師の結論 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/35120?page=3

 でもこの記事のようにやはり死後の世界が存在すると考えた方が都合がいい、あるいは説明がつくと考えられるのではないでしょうか。僕もこのような考えに同意します。

 科学技術が発達して解明されることが増えたとしても、どうしても限界はある。いつの日か解明されるかどうかも分からない。でも科学で解明されていることと現実に起こることとか哲学的な疑問や現象との懸け橋を宗教や哲学などが果たしているのではないかと思います。すごく拙い説明で申し訳ないですが…

 P.S.この記事に関して一部ご指摘を受けました。

 信仰と合理性は相反するものであり、存在を信じるかどうかについてどちらが都合がよいかと考えるべきものではありません。ここでお詫びします。

 ただ人間である以上どちらの方が都合が良いかどうしても考えてしまうものであるというのは断っておきます。その中でどう信じていくのかを理性と信仰とのバランスを保ちながら論を進める必要があるということです。

 死後の世界が存在する話を安直に扱うべきではない、というよりも話は慎重に行うべきであるということです。

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