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アルチンボルドと軽井沢と問いの哲学

アルチンボルドを見に行った。終始、軽井沢で発表して来た「問いの哲学」を、アルチンボルドの絵の中に見てしまっていた。アルチンボルドの絵には、それぞれを見れば果物やら植物やら生物やらの個別的なものが非常に精巧に描かれている。しかし、その個別的なものが集まる全体の絵としては、ある人物の肖像画であるようなものである。さらに、肖像画は連作であり四大元素とか四季とかと名前がつけられている。私が問いの哲学で示そうとしていることはこれに類比的なのかもしれないと妄想する。つまり、ある時期ある哲学者の個別的な問いのそれぞれは非常に精巧にできた問いである。しかしその個別的な問いが集まる全体の問いは、ある何かを主題とする問いである。さらに主題を様々にする問いの連なりがパラドクスとかアンチノミーとかアポリアとかいう名前をもつ。…。展示の最後には、その絵を逆さまにすると肖像画であることが突然現れたりするという絵もあった。いたく「共感」した。「問いの哲学」というのも「哲学の問い」というのを逆さまにしたときに、それが姿を突然現すのだ、と言いたい。こんな妄想をしながら、軽井沢の「いろんなことが起こったこと」や興味深い問いたちを想い出した。それにしても、やはり人が多いのには辟易した。 

帰って来てランニングをした。走り始めたと同時に思考がコトコト動き出して驚いた。そこで、少しばかり、もっともっと話したかったことのほんの少しを書いておく。それにしても、自分が言いたいことを言うだけで精一杯だった。人々が何をか言わんとしていることをできる限り受けとめようと堅く自分には言いきかせていたのに、全然、そうはできなかった。質問や助言をもらったのにもかかわらず、それを十分に咀嚼しないまま受け答えしていたことを考えるととてももったいない。いつまでたっても、他人の言っていることを傾聴するというのは本当に難しいことだと改めて思った。対話は本当に本当に難しい。 

私の言うことからすれば、哲学だけが特別で、科学や文学や宗教や思想や芸術は似ているということか、と問われた。それにはその通りだと答えた。しかし、こんな風にいうこともできた。すなわち、「哲学だけが特別である」というよりもむしろ、「哲学が独在する」と言いたい、と。世界がそこから開け、世界はそれでしかない、ということが独在性ということで言われているのならば、謎がそこから開け、謎はそれでしかない、というようなもの、これを問いといい、これこそが哲学のことなのだ、と。

 哲学の問いとは、それに対して何を答えたら答えになっているのかがわからない、というような問いなのだ、ということについて。私がいう「問いの哲学」とは、それに対して何を答えても問いであり続けるような問いを問い続ける、という哲学である。だから、哲学の問いの本質を探求するとともに、およそ存在しうる問いのすべてが分有するのは何であるかを哲学するのでなければならない、というのが私の言いたいことである。 

私の言いたいことからすれば、〜とは何かwhat? 〜とは何故かwhy?という表現でさえ妥協的ではないのか、という問いがあった。私はその通りだと答えはしたが、よく考えてみると、そんなに単純に答えられるようなものでもない。もらった問いの深さを十分に測らないで答えてしまった。そうであるならばやはりここに簡潔に何かを書くのは間違いだとも思うのだが、次のことは言っておきたい。存在よりも問い、謎、神秘が先立つということを、「?」がいかなる存在命題にも付加されうることが証拠立てている、というのがそれである。そして、問いの記号表現に基づく分析をする限りは、やはり「問いの論理学」が「問いの哲学」において特別な位置をもち、問いの記号表現の限界とその外を解明しうるような体系をもたらすものとされねばならない。 


自分のことばかり書いてしまった。確かに自分のことも言い足りないのではあるが、それよりももっと聞き足りないことや知らなかったことがたくさんあったのに。まあ、でも、これでいいのだ。知らないことや聞き足りないことを知ったかのように聞いたかのように書くのは私の趣味ではないから。

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