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知識の資本主義的収奪としての学校教育

関廣野『プラトンと資本主義』 北斗出版 1982年 http://amzn.asia/d/fkuOhRG
p380-382
例えば政府の高官と一介の女性の事務員を分け隔てているのは、身分ではなく官僚機構内の位置の差にすぎない。この事実に対応して、社会的官僚制が規範とする知識は、原則として万人に解放された公的な性格をもち、さらに特定の人格に神秘的に合体した知識ではなく、知識そのものの非人格的な権威がこの官僚制を支配する。加えてこの官僚制を伝統的官僚制から決定的に区別していることは、それが知識を万人に公開すべきものと認めるだけでなく、知識それ自体が可能な限り潤沢に万人の間に普及さるべきであると公言していることである。実際、プロテスタントが皆自分自身の救済に専念する祭司だったように、社会的官僚制の下では誰もが自分自身の教師となり可能な限り学問、教養を身につけねばならない。民衆は無知に留めおかれるどころか文化の圧力と公的措置にとって学問へと強制され、知識の権威に畏怖することを叩き込まれる。伝統的官僚制下の民衆の「アジア的無関心」とは対照的に、社会的官僚制下では教育熱が支配する。そして企業と官庁の官僚機構は、教育された労働力という視点から組織されている。
 近代的官僚制はこのように知識を普及されることを志向し、誰にでも知識を習得する機会を与えようとするが、これは人間本来の知的探求心とは何の関係もない。この官僚制は実は知識ではなく、抽象的な知識の権威を社会全般に行き渡らせようとする。それは官僚制化した社会で専門家が独占する知識のことであり、普及さるべき知識として正当化されているのは専門家の政治的威信なのである。したがって近代的官僚制は、知識を普及させ被支配者を「啓蒙」することをつうじてこそ知的独占の機会を作り出し、その知的独占の実体は官僚制の下で専門家が独占している政治権力である。この事態はかつてマルクスが暴き出した資本主義的な収奪と独占のシステムと見事に対応している。すなわち資本主義の経済体制は、労働者と消費者を直接収奪するのではなく、反対に大量の商品を生産し流通させることをつうじて彼等を長期的かつ最も効果的に収奪するのである。マルクスによれば、この流通をつうじての独占の形成が可能となるのは、工場において労働者が生産手段から分離され、人間的自発性を失って警衛隊の一要素と化していることによる。そしてこの資本主義経済における工場制度というスキャンダルに、資本主義の政治的文化におけるもう一つのスキャンダルが対応している。それは学校教育というスキャンダルである。
 近代世界の社会的官僚制は学校教育なしには考えられないものである。学校教育は個人の社会化の過程そのものを官僚主義的に管理し操作することによって、個人の市場社会への内面的な統合を実現する。そして工場制度が労働を資本という反=労働に転化させるように、学校制度は教育を反=教育に転化させる。というのも近代の学校の機能は本質的に政治的なものであって、抽象的な知識の権威を社会的に確立し、専門家による非専門家の操作と管理の正当化に仕えるものだからである。近代社会における官僚制的な支配の在り方は、学校教育のうちに要約されている。言い換えれば、知識の普及や人間形成をおためごかしに目標に掲げる近代の学校教育制度の本来の機能は、家族と地域社会からそれらに備わる伝統的な教育機能を剥奪し、これを社会的官僚制下の専門家の手に集中させることにある。伝統的にーーーそしてある意味では常にーーー個人の性格形成としての教育は家族に、倫理的=政治的教育は地域社会に委ねられ、民衆の日常文化と政治的自治能力はこの両者に基礎を置いていた。学校教育は、近代資本主義がこの民衆の政治的自治能力を麻痺させ粉砕するために用いた最も重要な戦略兵器であった。実際、資本主義体制の下では、経済の中心がその伝統的単位であった家族と地域社会から巨大な法人企業に移行すること、行政手段が匿名の官僚機構に集中すること、そして家族と地域社会に変わって学校教育が教育活動を独占することは、全く同時的な、事実上一つの事柄なのである。
 学校教育とは教育活動一般の官僚制化を意味する。しかし、一度制度化されるや、学校教育はあらゆる官僚制を生む原=官僚制として機能する。学校教育は直接資本に役立つ「人材」を養成するというよりは、機械としての個人を大量生産する。この教育学的支配という、市場最も陰険で冷酷な支配の様式は、十八世紀の啓蒙主義によって確立された。我々は啓蒙主義の本質を「教会から学校へ」という語に要約できよう。なるほど啓蒙主義は教会と「坊主ども」に政治的には激烈に対立したが、その実、「真理、進歩、人間性」といった合言葉の下に、西欧のキリスト教会が一千年来準備してきた民衆に対する教育学的支配を一挙に完成させたのであった。宗教改革がすべてのプロテスタントを俗世における修道士としたように、啓蒙主義は万人を抽象的な知識に奉仕する勤勉な学徒とした。こうして洗礼式に入学式が、牧師の説教に教師の課業が取って替わった。カルヴィニストの後継者は、何事にも正しい方法があると想定し、現在の必要ではなく将来への準備を強調する学校教育であり、カルヴィニストに独特な生活態度は、学校の生徒たちの間に再現されることになったのである。

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