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あの日から10年経ったということ

10年前の今日、私は宇都宮に住んでいました。当時、化粧品製造工場の品質保証部に所属していて、1週間くらい前に横揺れで長い余震があったとき、先輩が「嫌な揺れ方だな...」と呟いたのを今でも鮮明に覚えています。

震災当日、私は色見本を保管しているプレハブ倉庫の2Fに、独りで過去ロットの色見本サンプルを取りに行っていました。本震の前の余震で、かなり揺れたんです。私は、本当に文字通り身の毛がよだち、「これはただことではない」と本能で察して、所持していたものを全てその場に置いて、外に飛び出しました。

すると、同じように外に飛び出していた社員が居て、「やっぱり私だけが怖がっていたんじゃなくて、結構大きい地震だったんだなあ...」なんて思っていた矢先。本震がきました。

今でも鮮明に覚えています。そこにあったのは静寂でした。

もちろん、窓ガラスが一斉に割れました。原料のドラム缶が倒れて、電柱がぐにゃぐにゃ揺れて、車が飛び跳ねていました。

でも私は静寂に感じました。それ以外の、人の息吹がまるで聴こえないのです。叫び声さえも。もしかすると、呼吸することさえ忘れてしまっていたのかも知れません。それくらい、大きな揺れだったんです。目の前の光景が、信じられなかったんです。

程なくして、非常ベルが鳴り響いて、みんな建物から出てきて...

そのあとのことはあまり覚えていませんが、「取り敢えず家に帰れ」との指示が出て、車で陥没している道路に気を付けながらゆっくり自宅に帰ったのは記憶しています。

自宅に戻ると、家中のありとあらゆるものが散乱していて、食器が割れていたので素足で歩けなかったので、靴を履いたまま家にあがり、取り敢えず防寒できる毛布やカイロ、レトルト食品だけ持って、その日の晩は車で過ごしたのを覚えています。

それまで驚きしかなかった感情が、普段生活している部屋が跡形もなくなっているのを見たら、これまでの生活が全部壊れてしまったみたいに見えて、涙が溢れて止まらなかったのを覚えています。この時点で、家族の誰とも連絡を取れていませんでした。それも辛かった...

3月でしたが宇都宮は肌寒く、大きい余震が続いてその夜は一睡もできませんでした。

翌日、電気ガス水道すべて止まった状態で、行政の車が給水車のアナウンスをしていました。ペットボトルを持って駆けつけましたが、既にとんでもない行列...中には小さい子ども連れの家族も居て...

私は、道路の状況が分からなかったものの、実家(群馬)に帰ることを決意しました。

今思うとその判断は正しかったと思います。私の実家はそれほど被害がなかったので、帰省したときの温度差にとても驚いたのを覚えています。

程なくして職場から出社指示があり、2,3日で宇都宮に戻りましたが、余震に震える日々を今でも時々思い出します。

私は人生で死を覚悟したときが2回あります。1回目は、高校生でヤンチャしてたとき、自転車で2ケツしていて交差点に飛び出しノーブレーキで車に跳ねられたとき、2回目は東日本大震災です。

そんな目に遭うまで、「死」がこんなにも身近な存在であることに気付かなかったんです。

私は東日本大地震のときに、月並みですが、、本当に「明日世界が終わるかも知れない」「明日死ぬかも知れない」と思ったんです。

それからの生活はずっとモヤモヤしていました。明日世界が終わるかも知れないのに、私はこの生き方でいいのだろうか?なりたい自分ってなんだったっけ??と。

そうやって深い思考の波に溺れるとき、いつも思い出すのが、中学校3年生最後の演奏でした。

私は体格に恵まれていて、小学6年生で160cmくらい身長がありました。ミニバスケットボールのクラブチームに所属していて、センターで関東大会に出場したりしました。

でも6年生最後の試合、全国予選の決勝で1ゴール差で負けたとき、私は何故かこれで肩の荷が降りた...と思ったんです。やり切った、と。

その試合が終わったとき、何故か中学でバスケは絶対にやらないと心に決めていました。

その後中学に進学、部活を選ぶ際、友だちに誘われて吹部の仮見学に行きました。

幼少のころピアノを習っていたこともあり、音楽は好きだったので抵抗はなく、フルートかトランペットがやりたい!!と思って入部しました。

ところが、パート決めでまさかの試練。
「1番身長が高くて、扱えるのがあなたしかいないからTUBAね」と。

今思うと、ありがたい経験でした。世の中は理不尽なことばかりです。早いうちにそれがわかって良かったんです。最初は納得いかなくて不貞腐れていましたが、良い仲間に恵まれて最後は楽しく卒業を迎えることができました。

卒業の年、コンクール(当時は地区予選なんかなくて、いきなり県大会、しかも自由曲のみ)で万年銅賞弱小校だったのに、銀賞をとったのは良い思い出です。

そのときに演奏したのが、Robert Sheldon のVisions of Flight/飛行の幻想。

この曲って、最後のクライマックスに一斉に音が止まる静寂があるんですよ。

私はいつもこの静寂を、震災のときの静寂に重ねていました。

心が震えるんです。

「次の瞬間死ぬとして、思い残すことはないか?」そう問いかけられている気がするんです。

私はいつも叫ぶんです。「もう一度、合奏がしたい!!」と。もう一度ホールで、「あの鳥肌が立つ静寂を感じたい!!」と。

それが、社会人になってから吹奏楽に再チャレンジしようとしたきっかけです。

色々あってトロンボーンと出逢い、また素敵なご縁に恵まれ、今こうやって楽しく吹けていることは本当に感謝しかありません。

まだまだ未熟ではありますが、あの日の静寂にまた出逢えるまで精進する所存ですので、どうか引き続きぼにっくのことを温かく見守っていただけると幸甚です。

10年経っていても、いまだにあの日の夢をみます。

でも私の頑張る姿が、音楽を楽しむ姿が、いつか誰かの心を打つときがくることを願って...

私はトロンボーンが上手くなりたいのです。音を紡いで...誰かの明日の活力になれたら。ほら、新しい朝があなたを待っていますよ。

(写真は三陸にボランティアへ行ったときのものです。)

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