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高校合格の新聞取材で、将来の夢は先生になること、と私は口に上せた。しかし、私は全く先生になるつもりはなく、考えたことすらなかった。

聾学校から高校受験をし、合格した私は新聞取材を校長室で受けた。
新聞記者の問いかけはまったく私には分からず、担任の先生に任せて私は黙っていた。担任の先生はしゃべっていた。時折、水を向けられては、言うべき答えを一足飛びにもらい、それを私は復唱した。

取材の終盤のあたりで「将来の夢は?」と聞かれた。私はその質問を担任の先生から伝えてもらった。
将来の夢?中学生の私は、そういうことを長らく考えたことがなかった。幼稚部の頃は、歌手もしくはアイドルになりたいと思っていたそうだが、いつしか、その夢も、サンタクロースとともに、どこかへ蒸発してしまった。私は将来の職業を時折考えることはあったが、夢という言葉では括らなかった。将来の夢とは、将来なりたい職業ということだろうか。私は答えにつまってしまった。質問されてから私が実際に答えるまでどのくらいの時間が経過していたのかは分からない。
「将来の夢は」と聞かれて、答える言葉を持たない私に対し、横で先生が「学校の先生に」と言ったのをそのまま私は復唱した。
その後見た新聞記事には、「将来は学校の先生になりたい」という副題がついていた。自分が思ってもいないことが活字になってしまったことへの恐れがわいた。同時に、新聞記事が放つ輝きに、非常にきまり悪い思いがしたものであった。

私の通う聾学校に、聴こえない大人の先生はいなかった。聴こえない職員は2人知っていたが、関わりはほとんどなかった。1人は給食調理員であり、もう1人は寄宿舎指導員のY先生であった。聾学校には寄宿舎があり、聴こえない子どもたちと生活を共にする「寮父」であった。寮母または寮父も「先生」の中に入っていた。
私は寄宿舎に入っておらず通学生だった。私はその先生とはほとんど関わりがなかったが、耳が聞こえないということは知っていた。小学生のあるとき、体育館に私は1人でいた。そこへY先生がやってきた。寄宿舎と聾学校は体育館を通じてつながっており、寄宿舎側からそのY先生がやってきた。私に目をとめ、私の隣にやってきて腰を下ろした。私たちは少し話をした。私は、聴こえる先生と話すのと同じように、会話をした。手話はなかった。話をしながら、私はこの人は本当に「耳が聴こえない」のだろうか?と思っていた。当時、私が接する大人は聴こえる人ばかりだったからだ。
その時の私は、補聴器のイヤーモールドが合わなくなってきていたのか、よくハウリングを起こしていた。私はハウリングが起きないよう、時々イヤーモールドを耳の穴にしっかり押し込んでいた。Y先生と話しながら、もしかしたら今ハウリングが起きているかも、と思った。しかしY先生は、ハウリングのことを何も言わないまま、二人の会話は続いた。そこへ別の先生がやってきて、私にハウリングのことを指摘した。私にも、Y先生にも、ハウリングは聞こえていなかったのだ。そうかやはり耳が聴こえないんだな、と私は思った。

中学生の時に、聴覚障害者が聾学校高等部の先生になったというニュースが入ってきた。私が聾学校中学部を卒業して、そのまま高等聾学校に進学すれば会う「予定」であった。私はそのニュースをどのように受け止めていたのか思い出せない。
「聾学校の先生には、聾もなれるんだ」という発見があったような気もするし、それがニュースになるということ自体、驚きをもって受け止めていたような気もする。

高校生の私は、高校卒業後の進路を考え始めた。進路として除外していたのが、教育と福祉だった。他にも除外した分野はあるが、自分の障害特性以外の理由で除外したのがこの2つだった。
「教育」には興味がまったくなかった。私は、それまで将来の夢あるいは職業について「学校の先生」は全く考えたことがなかった。それは、聴こえないから先生にはなれない、というものではなく、職業と学校の先生が結びつかなかった。仕事とは、働いてお金をもらうことだ。学校の先生たちの仕事は何か。勉強を教えることが仕事なのか。先生たちも働いて、お金をもらっている、そういうことを私はイメージできなかった。
聾学校の授業は確かに先生から教わっていたが、教科書を読むだけの先生もいれば、何を話しているのか分からない先生もいた。授業の多くは遅々として進まず、教わるときには、既に自分で独学で勉強を終えていた内容もあった。級友や先生に請われ、私なりに授業を解説してみたことも何度かあった。同じく耳の聴こえない妹には、私が勉強を教えることも多く、私が教えたという自負があった。もちろん先生とは、授業を教えるだけの人ではない。真っ当な理由で叱られたこともある。だが、それらもページをめくるように、私の脳に要点だけが書きこまれた。尊大な眼で、私は先生たちを見据えていた。おそらく、私は色々なことを予習しすぎていた。それなりに楽しい思い出を築いた先生もいるが、絶対に越えることのない線を、私は自分と先生たちとの間に地平線のように引いていた。
私にとって聾学校の「先生」たちは、近すぎ、同時に、遠すぎた。
私は、薄っぺらな知識を、暗い地中で菌糸を伸ばして、むくむくとキノコのように育てていった。自分が拠り所としているのは、やせっぽちの背の低い自分自身だけであり、また、拠り所にできるのは自分一人しかいないと思っていた
そして「福祉」については、自分が受けこそすれ、自分が提供する側になることは到底考えられなかった。また、「福祉」には、心清く無償の愛にあふれた人が携わるものだと思っており、私は全く該当しないことを自覚していた。私は「福祉」を極端に狭く区切ってしまっていた。

私が高校に行っている間、妹は聾学校中学部だった。あるとき、聾学校中学部のH先生が妹のことで自宅に訪ねてきた。H先生には私も教わったことがあった。その間、私は自分の部屋にいたのだが、その先生が帰る頃になって、見送りをすべく玄関に出てきた。H先生は、たたきに立ち、ドアを開けながら私に「聾学校の先生になってね。待ってるからね」と声をかけてくれた。私はそのとき、卒業直前に受けた新聞取材のことを思い出した。その場には、H先生もいた。私は、将来の夢として、学校の先生になりたいことを、口に上せたのであった。私はそれまですっかり、そのことを忘れていた。
あれはたったの1年半ほど前だろうか。脳みそだけ何年もいっきに歳を取ってしまったような気がする。聾学校を去ってからとてつもなく長い時間が流れてしまったように思われた。
H先生は、私といつか一緒に働きたいと思ってくれているのだろうか。それは、私の未来を楽しみに待ってくれている人がいることだ。
自分はまだ何にもなっていないだけということを実感した瞬間であり、同時に、自分になにがしかの価値を見出せた瞬間でもあった。私の背骨を、形容できない嬉しさが立ち上っていった。
だが、私は先生になるつもりは毛頭なかった。
ー私は先生にはならない。ごめんなさいー という気持ちで笑顔を浮かべていた。それは諦念でもあった。
そして、その感情を、私の家を去るH先生と共に、私はドアの向こうへ見送った。

あれから二十数年。私は聾学校の先生にはならなかった。なろうと思ったことは一度もない。

先日、「将来は聾学校の先生になること」と晴れ晴れと夢を語る、耳が聴こえない小学生の話を聞いた。
驚いた。
そんなふうに、鮮やかに将来の夢を語る子どもたちが出てくるとは。
そして、聴こえない子どもが語る将来の夢に、先生という選択肢があるとは。

当然、その小学生が語る夢の土壌は、聾者も聴者も一緒に、周囲の大人たちが手をかけ耕したものだ。その慈しまれた豊かな大地で、子どもたちは太陽と出会い、光合成をし、天高く葉をのばしていく。

そんな子どもたちが、私にはとても眩しい。

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