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もっと早く手話と出会っていたら。聾学校は手話からあまりにも遠い世界だった。

今、私は一日のすべてを手話で過ごしている。職場で同僚との会話は手話。家では、夫や子供たちとの話は手話。友達との会話も手話。手話ができない人たちとは、筆談をする。

だが、私は高校を卒業するまで手話ができなかった。聾学校を幼稚部小学部中学部までと13年間過ごしたが、中学卒業の時点で、私が知っている手話といえば、1~10までの数字、「男」「女」「嘘」「でたらめ」くらいしかなかった。
その後入った高校は、聾学校高等部ではなく、一般の高校。聞こえない生徒は私1人。3年後の高校卒業時には、手話の語彙は少し増えていたものの、それも、級友とふざけて手話辞典を引いて覚えた「便秘」「下痢」ぐらいのものだ。

聾学校時代、先生は口だけで、ゆっくり話していた。答える生徒たちも、先生の口を読み取り、口で答えていた。休み時間には、手話を交えて話す生徒たちもいた。だが先生の前では、手話を使わなかった。
手話は「使うべきではない」ものだった。

中学部のとき弁論大会があった。何人かの生徒は、登壇中に「気を付け」の体勢のまま、手がもぞもぞ動いていた。それをみっともないと批評する先生たちがいたし、自分もみっともないと感じていた。手がもぞもぞしない自分をひそかに誇らしく思っていた。

振り返って思うと、聾学校では、自分が一番手話ができない生徒だったろう。手話から一番遠かったのは間違いなく私だ。
小学生のときに、級友に指文字クイズを出題され、見事全問不正解となり大いに笑われたこともある。指文字は、五十音を一字ずつ手の形で表す記号体系である。私は、その後指文字を覚えた。ついぞ聾学校で指文字を使うことはなかったが。

しかし高校に入って、思い知らされた。話すのが早すぎて読み取れない。口を読む「読話」には多少の自負があったのに。自分の声がこんなにも伝わらないとは。聾学校では先生にすぐ伝わったのに。

手話を本格的に覚えだしたとき、私は18歳になっていた。手話を覚えようと思って、手話を覚えたわけではない。
同世代の、耳が聞こえない仲間たちと出会い、友情を育んでいった。夜を徹して語り合い、恋愛をし、時には喧嘩もした。その日常に、手話があった。
手話はあっという間に私の身体にしみた。乾いたスポンジが水分を吸収するように。
そうして、私は耳が聞こえない自分を再発見し、自分の人生を再定義した。

手話を覚え、学ぶことは、ただ単に、手話の単語を覚えることではない。
手話を話すことで、聞こえない身体様式で生きる人々が見えてくる。
”目で見る世界”の歩き方が分かってくる。

英語を学ぶことで、英語圏の国の文化がかいま見えるように。

高校時代の話に戻ろう。
もしも、あの時、手話がわかっていたら。

自分の障害をもっとうまく他者に説明できただろう。自分が必要とする支援内容を整理し、相手に伝えられただろう。何度も声だけで話そうとするのではなく、筆談で伝えただろう。アイコンタクトや身ぶりを効果的に使えるようになっただろう。聞こえない自分に自信が持てるようになっただろう。

分かちがたいほどに、手話は、私の人生の根幹をなしている。いま、私は手話「を」生きている。

NO SIGN LANGUAGE, NO LIFE.

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