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聾学校から一般高校への「インテグレーション」へ向けて、私は自身の葬列を歩いていた。行く先にある冷たく暗い何かを大いなる楽観で覆い隠そうとしていた。

聾学校など障害児に特化した教育を行う学校ではなく一般学校で、障害児・生徒が教育を受けることは「インテグレーション」あるいは「統合教育」と呼ばれた。当時、インクルーシブという言葉はまだなかった。

今でこそ、聾学校中学部から一般高校に進学する事例は珍しくないが、私が聾学校にいた当時はとても珍しいことであった。
珍しかったのは、大きくは以下2点の理由によるだろう。

第一に、そンテグレーションの時期だ。
インテグレーションするのは、小学校にあがるタイミングあるいは、小学校低学年でのインテグレーションが主流だった。そのインテグレーションは、聴力障害の程度が比較的軽い、発音が明瞭という基準で決定されることが少なくなかった。あるいは親の強い意向によって決定されることもあったようだ。
聾学校中学部になると、聾学校にいるのは、インテグレーションのふるいにかけられ残った児童生徒たちだ。聴力障害の程度が重度あるいはインテグレーションに適さないと判断された子どもたち、または意識して聾学校を選んだ子どもたちだった。

第二に、学力の問題がある。
聾学校では、その教育は口話中心で進められた。口話とは、口の動きで何を言っているかを読み取り、また聴覚障害児自身も、音声を発音するものだ。聾学校の先生たちは、みな、口を大きくあけてゆっくりはっきりと話すすべを身につけていた。だが、当然ながら口話には限界がある。口を読み取ることは、相手の話し方またその文脈において読み取れる内容もその精度も大きな差があった。畢竟、授業の進度は遅れてゆく。学年対応の授業はできず、2,3年遅れが当たり前だった。
中学卒業のタイミングでインテグレーションをする場合、その学力を高校受験照準に合わせなければならなかった。

中学3年の春、「校長会」なるものがあることを知った。学校の校長が集まる会だそうだ。
そこで私が通っていた聾学校の校長が、私が受験をする予定の高校の校長に挨拶をし受験をする予定だと伝えた話を聞いた。「挨拶」は友好裡に終わったという。校長会の話をしてきたのは親か先生かは覚えていないが、その話はつまるところ「だから受験(だけ)はできるよ」という話だったようだ。
数年前に、聾学校の先輩が一般高校受験を希望したものの受験拒否にあい、聾学校高等部にやむなく進学をしたという話をその頃に聞いたことがあった。それから数年を経て、私は「受験(だけ)はさせてもらえる」ということだ。社会の雰囲気は、時代は、その1点だけでも変わりつつあった、といえるのかもしれない。

受験するには、聾学校の「公認」ともいえる応援と、受験先の高校の「理解」が揃わなければならないということがあったのだろう。
校長会の話をきいて私は、少なくとも学力試験で落ちるわけにはいかない、と思った。私は聾学校の「公認」を受けて立つ候補であった。

私も、私の親も、聾学校の先生たちも、私が高校に合格することだけをまず考えており、入ったあとはどうするのかは全く話題にならなかった。
入った後のことは、私自身の個人的問題であり、私が努力すべきことであった。当時、情報保障という考えは、聾学校のなかにもなかった。親や先生だけなく、私自身も含めて社会全体が、情報保障は権利だという考えにたどり着いていなかった。
そういう意味では、わたしの「インテグレーション」は、単なる場の統合であった。

わたしは中学部入学後、一般高校受験を見据え本格的に受験勉強を始めた。私が一般高校に行く気持ちをもっていることは、少なくとも中学部の生徒、教員は全員が知っていただろう。
中2の3月、卒業式でわたしはひとつ上の卒業生の母親に話しかけられた。親自身も聴こえない「デフファミリー」の親であった。そのお母さんは、運動会などで顔は見知っていたが、わたしはこれまでそのお母さんと話したことがなかった。
私が一般高校に進学する予定だということについて、
「普通の高校、大丈夫なの?」
と聞かれた。
私たちの初めての会話がその内容だということにも驚きながら、半ばわたしは条件反射のように、大丈夫と答えた。

そのお母さんは、信じられないものをみるような顔つきをしていた。その反応は、学校の先生たちや周りの親たち、同級生とも違っていた。それは私が初めて接する眼だった。しかし、その眼はまごうことなき真実を映していると私は気づいた。あの眼はただひとりだけ、高校に入る前の私に真実を伝えた眼であった。
聾学校の生徒たちはまだ「子ども」であり、親と学校に繭玉のように守られていて、社会をまだ知らなった。親や先生たち周囲の大人たちは、「聞こえる」人ばかりだった。
一般高校のなかで私がどういう現実におかれるかの予測において、哀しいほどの近似値をたたき出していたのは、デフファミリーの親たちだけであったかもしれない。
そのお母さんは自身の経験からも、耳が聴こえない人が社会で生きていくことの厳しさをよく知っていたのだろう。あえて、聞こえる人たちの世界に、死地に飛び込むわたしが不思議で仕方なかったに違いない。
長い聾学校時代のなかで、その聾のお母さんと話したのはその1度きりだ。最初で最後の会話であった。そこに手話はなかった。その卒業式以来、そのお母さんも、卒業生とも会っていない。

4月になり、私は中3になった。私は塾に通いはじめた。
塾に通い始めて、私はようやく初めて気づいた。そうか、これが「ふつう」の授業なんだな、聴こえる人はこんなふうに授業をするんだなと思った。
この授業スタイルを高校に入って3年間やらなければならないのだと思った。足元がゆらぐような恐怖を感じた。中2の3月に、デフファミリーのお母さんと話した時の眼を思い出した。
しかし、やはり、高校も聾学校に通うのは、ありえない選択肢だと思った。浸かりすぎてすっかりふやけてしまった指のような聾学校生活を、ようやく抜け出せるかどうかというところなのだ。何年もかけてめざしてきた聾学校脱出計画はようやく出口が見え始めていた。このまま突き進むしかないと思った。何かを得るには、何かを失う覚悟が必要なのだ。
目をつぶれば、何も見ないように感じないようにすれば、やりとおせるのではないかとも思った。

私は死地に赴く兵士であった。一人きりの行進であり、見送りの人は見えなかった。私は私自身の葬列を歩いていた。
その先にある冷たく暗い現実をうっすらわかっていながら、私は大いなる悲観を大いなる楽観で覆いつくそうとしていた。

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