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私は自分ひとりきりのチームで、異星に降り立った。私は「大人」に頼る発想がなく、早く大人になりたい、自身の人生に責任を持ちたいと思っていた。

私は入学前の春休みのオリエンテーションで、高校に1人で行った。小さい頃一緒に遊んだ近所の友達とは別の高校になってしまい、私は誰一人、高校のなかに知り合いがいなかった。私はひとりで異星におりたった。そのオリエンテーションで、学校指定のジャージ注文をし、春休みの宿題を持ち帰った。オリエンテーション自体の内容が分からないだけでなく、ジャージ注文をすること、入学前から宿題が出されること、あらゆることが私の想定外であった。
聾学校のやり方と、一般学校のやり方は何もかもが違っていた。学校指定ジャージの注文の仕方、休みの届出の仕方、出席の取り方、試験の受け方、教材への名前の書き方、靴箱の使い方、体育前の更衣の仕方、そういう「ふつう」のやり方がわたしはまったく分からなかった。
私には頼る人がおらず、予備知識もなかった。こけつまろびつ、周囲観察と模倣で、ぶっつけ本番で「ふつうの学校」のやり方を私は体得していった。

高校入学式の日、私は母と高校の先生とともに、保健室に寄った。入学式とクラス分けでの「変な話し方」の自己紹介やらもすべて終わって、あとは帰るだけのときだったと思う。だが私の脳内は引き続き高速回転していた。まだ私の身体は高校校舎のなかにあったからだ。
保健室の先生は、口を大きく開けて分かりやすい話し方をしてくれた。保健室の先生に、何かあったら保健室に来てねと言われたような気がする。私は黙ってうなずいた。何か怪我をしたら寄ってね、という意味にしか私は受け止めていなかった。
私は、母と保健室に寄ったのは、学校「施設」の案内の一環だと思っていた。図書室の案内はされなかったのだが。私が保健室に行ったのは、高校三年間のうち、その入学式の日1回きりであった。保健室の存在はそれきりで、思い出すこともまったくなかった。高校2年生のときに、原因不明の腹痛にしばらく襲われていた時期もあったが、学校を早退して私はまっすぐ家に帰った。
「保健室登校」という言葉を私が知ったのはすでに高校を卒業した後だった。入学式の日、保健室の案内があったのは、そういうわけであったかと得心がいった。

高校1年生のときの担任は、美術部の顧問だった。話し方がまったく分からなかった。その先生は、しきりに美術部入部を勧めてきた。私は美術という科目が好きで、選択科目でも美術をとったし、休日は美術館に行く趣味も持っていた。でも私は美術部には入るつもりはなかった。先生がしきりに美術部に誘ってくるのは、自分の見えるところに私がいて、それを見守って安心したいだけだろうと私は思っていた。私はもう別の部に入っていた。しかしその部でも、私は分からないことが多すぎて疲れてしまい、次第に幽霊部員となり、退部した。

まだ親近感をもてたのは、同じ聴覚障害学生たちだった。数か月おきに、大学・高校に通う聴覚障害学生の集まりがあり、その会合は楽しかった。しかし、彼らとの関わりには、ふとした拍子に、埋め切れない違いを感じるときがあった。みんな私より「話すのが上手」で「友達を作るのが上手」だったからだ。彼らは、聴こえないなりに、学校生活を楽しんでいるように見えた。彼らとの集まりで、私自身の高校生活のことを持ち出すのは「野暮」だと思っていた。

高校生活のなかで、私は「大人」にはまったく頼らなかった。頼ることも思いつかなかった。私は「相談する」ことも含め「頼る」習慣自体を持っていなかった。
障害者としてニーズを表明し支援を受けること、
高校生すなわちまだ仕事をしていない未成年として助けてもらうこと
初めて参加するその場でのやり方とルールを教えてもらうこと
それらのことは、私のなかでは同じことであった。三重に、私は縛られていた。
周囲の大人たちは、ほとんど聞こえる人たちであり、彼らと私は違うと直感的に、分かっていた。聞こえない大人も、わずかながら周囲にいたが、当時の私には、聞こえる大人も、聞こえない大人も、違いがあまり分からなかった。周囲の大人たちには、頼る意味がないと思っていた。自分の生きる道は、自分自身で見つけるしかないと思っていた。
私は早く大人になり、自分自身の人生に自分で責任を持ちたいと思っていた

私は高校卒業後、短大に進学することに決めた。ようやく親のもとを離れられる安堵、わかる勉強ができるかもしれない、などの期待をもって、地元を離れた短大の入学試験に一人向かった。

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