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自分がつまらない聴者のコピーになっているのではないかとぞっとした。そして聾学校の子どもたちの愛すべき複雑さと豊かさに思い至ったのであった。

聾学校の同級生の一人に、片耳だけ耳介がない子がいた。2歳頃のときから何年も一緒に過ごしたのに、どんな耳の形をしていたか私ははっきりとは思いだせない。ことさらに見る対象でもなかったからだ。耳穴もなかったのではないか。あったとしてもとても小さいものだったろう。
その子は、私たちがするようなイヤーモールドつきの補聴器ではなく、直径4センチほどの黒い円の補聴器をちょうど耳穴があるようなところにあてるように、つけていた。補聴器をかける耳介がないため、カチューシャのように補聴器のベルトを頭の上からかけていた。もう片方の耳には、私と同じイヤーモールドつきの耳穴式補聴器をつけていた。「小耳症」を知ったのは、私が大人になってからだった。

小1のとき、私はその子と何かの拍子にぶつかって、手をその子の耳に強くぶつけてしまった。血が出て、その子は手当のためにすぐに教室を出た。おそらく保健室に行ったのだろうが、私はぶつけた感覚がなく、私自身がやってしまったことをしばらく呑み込めずにいた。そこにいた他の同級生は、あれから何年たったあとも、時々、あれは血がでたねと話題にした。そのたびに私はばつが悪い思いをしたものだった。

いくつか下の学年にも、小耳症の子がいた。私の同級生と同じように、カチューシャのように頭から補聴器をかけていた。
口蓋裂の治療をしたと思われる子、弱視で「盲ろう」の状態だった子が回りにいた。今でこそ、様々なラベルが思いつくが、当時は、いろんな友達がいる、という認識しかなかった。様々な彼らを身近に見て、一緒に遊び、一緒に勉強をした。彼らが近くにいるのが当たり前の光景として見て育った。

大人になり、私は手話を覚えた。私の人間関係は飛躍的に拡大した。手話というコミュニケーション手段では、発音の明瞭度や聴力の違いは見えなくなった。あっても気にならないものとなった。手話という土台に人間関係が構築された。

ある時、私は聾者数人と座っておしゃべりをしていた。そこには、ずっと聾学校できた人もいれば、聾学校の経験が一度もなくずっと一般学校でインテグレーションして育った人もいた。そこでの共通言語は手話だった。そのうち1人がこんなことを言った。
「この間、耳がない聾をみたけど、気持ち悪かった」

私はあっけにとられた。この人は何を言っているのだろうと思った。
彼らを、醜いとも気持ち悪いとも、思ったことがなかったからだ。
その後すぐに激しい怒りがわきあがってきた。
私はすぐに立ち上がってそれを指摘しようと思った。それを言いかけたとたん、別の聾者が私より先に言った。
「聾学校にはたくさんいたよ。いるよ!どこにも!変じゃないよ」

私は先を越された。しかし、その人が私が言いたかったことをすべて言ってくれたと思った。「気持ちが悪い」は無頓着な発言だとしても、そこには差別的な含意があり、それに我慢がならなかった。黙っていることで、その貶めの過程に加担したくはないと思った。
私は、自分が聾学校で過ごしたという事実だけでなく、私の上級生同級生下級生たち、ただ一つの「耳が聴こえない」という共通点でつながった「友達」への責任を同時に負っていた。

聾学校のことに、蔑視のまなざしがあてられたとたん、私は「客観的」であることなどできなかった。聞こえない子ども同士で遊び過ごした無数の記憶が、きらきら輝いていた記憶が、汚されたと思った。むしろ「客観的」であろうとは思わなかった。それが間違っているとも思わなかった。

耳介がない、耳穴がないという子どもは、一般社会のなかでは、例外的な存在であったかもしれない。だが聾学校のなかでは日常だった。話題はその場にはいない「耳がない聾者」のことであったが、自分の身体をナイフで切り付けられたように感じた。また、自分が育った「聾学校」の価値も貶められていると感じた。外部の人々のまなざしは、けして小耳症の子どもたちにだけに向けられたものではなかった。聾学校全体がグロテスクだとみなされているのであった。

くだんの会話のなかで、気持ち悪いと言ったその人は、小耳症の人を見る機会も、接する機会もないままきてしまったのだろう。
子どもの頃、聾学校にいた私は、聾学校を忌み嫌い、聞こえる人に追いつくために、聾学校を脱出するために勉強をしていた。私はひたすらに意識を、聞こえない身体の外に向けることによって、聾学校の外を見つめることによって、自分の世界の意味を構成し、所有していた。
しかし、他人が、聾学校にまなざしをあてたとたん、私の世界にもまなざしがあたった。私の身体はどっぷり聾学校に浸かっていたことに気付いた。それでいながら、私は「ふつうの」高校で過ごした世界にも、片足をつっこんでしまっているのであった。
私自身はいつのまにか、匂いも香りもいっさい失われた、つまらない聴者のコピーになってしまっているのではないかとぞっとした。

そうさ!自分は聾学校卒業だ。それの何が悪い?

私は思い知った。忌み嫌っていて、息苦しさを感じていて早く抜け出したいと思っていたはずの聾学校。
その聾学校にいた「聞こえない」子どもたちの複雑さと豊かさを、どうしようもなく私は愛していたのだと。

手話は知らずとも、会話に眼をたくさん使った。相手の顔を見、たえず表情や温度や速度を変えていった。相手の言っていることと対立したり混じり合ったりして、複数の水流が一つの流れになっていく会話の経験を、私は聾学校のなかで育てた。それは、高校卒業後ようやく手話と出逢った私の「手話」に何倍もなって強く返ってきた。
自分の聾者の部分を、聾学校が大きく育ててくれた。

思い出してみれば、聾学校の友達が話していた言葉。
文化的に劣った、非常識だとみなされる人々不正確で理解しがたい言語。聾学校の先生は分からない言葉。他の友達が代わりに音声通訳するときもある言葉。
かつては私も、聾者を、手話を、そのようなものだと思っていた。
今は違う。

どれほど自分の書く日本語が「洗練」されていこうとも、聴者多数社会のなかでの処世術が常識がそれなりになっていこうとも、自分の「黒」は薄まらず、むしろ濃くなっていく。いよいよ、カラスの濡れ羽色のように、つやつやとした漆黒の黒となっていくのだった。

私はその黒さを愛する。聾者の息吹が感じられる、躍動的な黒さだ。

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