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What's Stax ? Why Stax Now ? ⑥激動と絶望の1967年そして、、、

1960年初頭のメンフィスでは、黒人はひどい扱いを受け、社会から排除され、抵抗に直面して暴力にさらされました。

スタックスが、公民権運動の真っ只中に登場し、傍観するのではなく変化を起こそうとしたことは、当時としては十分に危険な行為だったのです。

“Racism was so rampant that the black and white artists, who were like family inside the doors of Stax Records, were not able to stay in the same hotels, eat in the same restaurants, and even go to the zoo on the same day,”
「人種差別があまりにも蔓延していたので、スタックス・レコードの中では家族のような存在だった黒人と白人のアーティストたちは、同じ日に同じホテルに泊まったり、同じレストランで食事をしたり、動物園に行くことさえできなくなった。」

Tim Sampson, communications director of the Soulsville Foundation, the nonprofit organisation running the Stax Museum of American Soul Music and the Stax Music Academy.
London newspaper clipping about the Finsbury Park event

1967年スタックスの名声は頂点


1967 年の「スタックス・ヴォルト・ツアー」で、参加アーティストたちは”英雄”のように扱われました。


オーティス・レディングの未亡人ゼルマ・レディング曰く

オーティスに対する真の敬意を最初に示したのはヨーロッパの聴衆だった

もし彼がヨーロッパ人の想像力を捉えていなかったら、Monterey Pop Festivalに招待されていなかったかもしれません。

多くの人が、このツアーによって”Stax魂”がついに世界中に浸透した瞬間だったと考えられます。



Stax-Volt Revue: Live in Norway 1967

スタックスの富が急速に高まっていましたが、対照的にハウスバンドのほとんどのメンバーは生計を立てるのに苦労していていました。

日中は、スタジオで長時間働いて曲やアレンジメントを開発していていましたが、レコーディングの対価として給料が支払われるのは、コンサートが行われたときだけだったのです。生活のためには、副業(夜は地元のライブハウスに出演して稼ぐ)をしているのが実態だったのです。

これを改善するためにアル・ベルが、「ビッグ 6(ブッカー・T&ジ・MGズの4人、アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーター)」を125 ドル/週の固定給のフルタイム給与従業員にしました。

これで、「ビッグ6」は夜の仕事を辞めてフルタイムのプロのスタジオミュージシャンとして、スタックスでレコーディングした事実上すべてのアーティストを定期的にサポートするようになったのです。

また、ベルはジム・スチュワートを説得して、アトランティックから受け取ったロイヤルティの一部を「ビッグ6」が均等に分割し、支援するアーティストの制作業務の支払いに充てるようにしました。

【スタックス内政治的状況変化】

スティーブ・クロッパーはA&Rディレクターから解任され、アル・ベルがその職に就任して、執行副社長に昇進。

ホーン奏者の二人(ウェイン・ジャクソンとアンドリュー・ラブ)がフルタイム従業員になりました。

http://staxrecords.free.fr/studioA.htm

1960年代の2つのカウンターカルチャー


【ブラックパワー】と【ヒッピー文化】は、1960年代のアメリカにおけるカウンターカルチャーの二つの顔と言えます。

【ブラックパワー】:人種差別と機会の不平等に直面しているアフリカ系アメリカ人の経験から生まれた運動
【ヒッピー文化】:主に白人の若者によって牽引され、より広範な社会的・文化的自由を追求するもの

【ブラックパワー】

1966年10月15日 ボビー・シールとヒューイ・P・ニュートンが「都市の黒人の窮状を根底から打開する」という目的で『自衛のためのブラック・パンサー党(Black Panther Party for Self-Defense)』を組織しました。

Huey Percy Newton

革のジャケットにベレー帽そして手にはショットガンの武装化
「自衛のため」と付けた意味は?
警察官から黒人が受ける人権侵害や暴力に対しては対抗する』
という決意の表れです。


【ヒッピー文化】

1966年頃から、西海岸サンフランシスを中心とした若者中心の新しいムーブメントが起こります。

『ヒッピー』たちは家賃が高騰したサンフランシスコには住めずヘイト・アシュベリーに沢山あった『朽ちかけたビクトリア様式の館』でのシェアハウス運動を始めて ある種のユートピア社会を作ることを目指します。

1967年の夏 アメリカで巻き起こった文化的・政治的な主張を伴う社会現象が『サマー・オブ・ラブSummer of Love)』と呼ばれています。


【ブラックパワー運動】と【ヒッピー文化】は、マイノリティの権利、平和、自由といった共通の理念を追求しながらも、そのアプローチや重点を異にしていました。
それぞれが持つ哲学的・戦術的な違いを理解することが重要です。
これらの違いは時に緊張や誤解を生むことがありましたが、両運動は社会に大きな影響を与え、多くの点でお互いを補完し合っていました。

【ブラックパワー運動】に影響を受けた音楽やアートが【ヒッピー文化】に取り入れられることもあれば、逆に【ヒッピー文化】の一部の要素が【ブラックパワー運動】に影響を与えることもありました。

彼らの闘争と成果は、今日の社会における多様性と包摂の価値の基盤を形成する上で不可欠な役割を果たしています。


1967年4月15日のべトナム反戦デモ
ニューヨークで反戦デモが行われ国連本部までの行進に約30万人が参加


1967年6月1日(アメリカでは6月2日)

ビートルズの8作目のアルバム
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)』がリリースされました。


Monterey Pop Festival(1967年6月16日~18日) 


新しい音楽の祭典で、既成に捉われないミュージシャンが集り
「人種の壁」「性別の壁」を【音楽】でいとも簡単にぶち破りました

テーマ=「Music, Love & Flowers」 スローガン=「Flowre Power」
『花』は愛のシンボルそして平和の“武器” 反体制・非暴力ユートピアを象徴していました

特に『ソウル』を然程聴いたことがないであろう白人オーディエンスに対して、オーティス・レディングのパフォーマンスは予想を上回る大反響だったのです。


このフェスの2か月後 The Bar-Keysがデビュー



アトランティック・レコードがワーナー・ブラザース=セヴン・アーツに買収される


具体的な日付は明確には記録されていませんが、この重要な出来事は1967年の初めから中盤にかけて発生しました。

ジム・スチュワートはウェクスラーとの当初の契約を紳士協定とみなしており、1965年に配給取り決めが契約書として正式に締結されたとき、契約書を読まずに署名していました。

ジムは、運命の所有権条項を見逃していたことに気づいたのです。



(Sittin' On) The Dock of the Bay


Monterey Pop Festivalで人気に火が付いたオーティスに対して、ロックコンサートの興行主ビル・グラハム(Bill Graham)がウォルド・ポイント・ハーバーにあるボートハウスに滞在しての休息を提案しました。

Bill Graham

このボートハウスでオーティスは

"Sittin' in the morning sun, I'll be sittin' when the evening comes"

という歌詞を思いついたのです。


この楽曲のセッションは、11月22日に録音され 12月7日に追加のオーバーダブが加えられました。

残念ながら、これがオーティス最後のレコーディングです。

この録音後、オーティスは、妻のゼルマに「少し違う」「スタイルを変えたい」と語っていたそうで、この曲は未完成であると考え、最終バージョン録音することを考えていました。

しかし、その機会は得られませんでした。



【フィル・ウォルデン(Phil Walden)】談
「オーティスと過ごした最後の晩は、共通の友人の家にいた。あいつ、ビートルスの『サージェント・ペパーズ』をずっと分析してたよ。ビートルズの連中が何をやってるのか探ろうとしていたんだ。(略)
ディランやビートルズを知り]歌詞の大切さを前よりも強く意識するようになったんだ。(略)あれは、あいつがかなり意識して歌詞に深い意味のある曲を書いた結果なんだ」



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