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R&Bとソウル・ミュージック⑭James Brownが教えてくれたビジネス論

「ジェイムズ・ブラウンがいなかったら、世界はまったく違ったものになっていただろう。そして私もみなと同様に、ジェイムズ・ブラウンがいなかったら、自分の人生は全く違ったものになっていただろう」

アラン・リーズの言葉JB論 ジェイムズ・ブラウン闘論集1959-2007より抜粋)


企業・組織の中において、誰かが新しいことを始めようとすると必ず反対する者が現れます。積極的に反対する者だけでなく消極的反対者もいます。

いわゆる「抵抗勢力」がどこからともなく現れるのが”世の常”

特に経営者以外で新しく企業・組織にやってきた新参者が、何か新しいことをやろうとすると大変な抵抗に遭うことは必至です。この「抵抗勢力」といかに”折り合いをつけるのか?”これがプロジェクトの成功につながる1つの重要なファクターなのでしょう。

My expectations of other people, I double them on myself.
他の人々に対する期待、私はそれらを2倍にして自分に向ける

James Brown
James Brown

ジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr.)

1933年5月3日 彼は、ジョージア州オーガスタから60キロほど離れたバーンウェルという田舎町で産声を上げました。

彼は一人っ子。父親は、森に入ってテラピン油の原液採取集を生業としていて、夜遅くならないと帰ってこない。4歳の時に母親が家を出ていった。
この生活環境では、親一人子一人での生活は行き詰まりました。

そこで父親はJBをオーガスタに連れていき、家賃7ドルの掘っ立て小屋(叔母の所有)に住ませます。その叔母は、密造酒をさばき、売春婦を囲って生計を立てていたこともあって、様々な人間が出入りしていました。
(戦前のブルース・スター:タンパ・レッドも含まれる)


10歳にならないJB少年は、靴磨き・店の床掃除・綿摘み・洗車等の手伝いをして家賃の足しにするというサバイバル経験によって「自分のことは自分で考える」という、どんな逆境や危機にも屈しないタフなメンタルが養われたのです。

また、幼少の頃のJBは、白人を恨んでいるはずなのに、いざ彼らの前に立つと”Yes Sir”と答える「父の卑屈さ」を本気で嫌悪していました。

人間は白かろうが黒かろうが、お互いに尊敬の念を持って接するべき

ここにJB魂(ソウル)の原点があったのです。


15歳の頃には学校を中退して、音楽にスポーツ、そして車の窃盗
友人とつるんでは軽犯罪に明け暮れる生活になっていっていきました。

16歳の時に逮捕され「真面目に努めたら8年、改悛の情が全くない場合は16年」を言い渡されます。
地元の郡拘置所収容後、最初はローマ、地祇に地元トコアにあるGJTI(ジョージア州少年訓練専門学校)に送られ、19歳で仮釈放となるまでの3年間を過ごしました。

仮釈放の保証人は、JBと行動を共にするようになるボビー・バード(Bobby Byrd)の父親(地元の名士)で、ローソン・モーター・カンパニーへの就職の世話もしてもらいました。(ボビーはGJTIの中の人間ではありません。GJTI野球チームと地元チームの交流試合で二人は意気投合したのです。)

仮釈放の嘆願書には次のように書かれていました。

神に人生を捧げるためにゴスペルを歌いたい。もちろんちゃんとした仕事に就き一生懸命に働きます

The Gospel Starlightersへの参加(1952年頃)

JBは、ボビー・バードがリード・ヴォーカルとピアノを担当するカルテットの一員として参加して地元の教会を回ります。
このグループもR&Bへの転向中で、野心家であるJBの強烈なパワーもあって、小さなクラブ・ジョーク・ジョイント・劇場などに出演するようになっていきました。(主導権は完全にJBに移っていました。)

The Flames結成(1954年頃)

GJTIで一緒だったジョニー・テリーを加えて、決まったグループ名のないままの活動を経て「The Flames」と名乗るようになり、ジョージア大学のフラタニティのパーティーなどに出演します。

リトル・リチャードとの出会い

全国的に有名になる前のリトル・リチャードは、南部一帯では「彼が出演するとなればクラブは超満員になる」ほどの人気でした。

Little Richard

トコアのクラブでのリトル・リチャードの公演の休憩時間に、The Flamesは突然ステージに上がり演奏したところ、超満員の観客から大喝采を浴びたのです。
その騒ぎを見たリトル・リチャードのロード・マネジャーが、メイコンの黒人エンタメ界の中心人物クリント・ブラントリーにThe Flamesのことを伝えました。

程なくして、リトル・リチャードがバンドもクラブでの公演も全て置き去りにしてカリフォルニアに旅立ってしまうという出来事が起こりました。

クラブでの仕事の穴を埋めるためにJBが駆り出されたのです。
(ブランドリーが「The Famous Flames」にグループ名を変更)


Please Please Please

Please Please Please

1956年1月

JBは、アトランタの配給会社サウスランドにデモ・テープを持っていきました。ここから、キング・レコード代理人(ラルフ・バス)がデモ・テープを聴くことになり、「新人グループを見つけた」と社長のシド・ネイサン(Syd Nathan)に報告したのです。

Syd Nathan

1956年1月23日:The Famous FlamesはFederalと契約

1956年2月4日

『Please Please Please』のレコーディングを行ったところ、シド・ネイサン「ただのクズだ」と評して怒ってスタジオを出ていったのです。

"That's the worse piece of crap I've heard in my life. It's someone stuttering on a record only saying one word ...".
「あれは私が人生で聞いた中で最悪の駄作だ。誰かがレコードでどもりながら一言だけ言っているんだ…」

そこでJBはシド・ネイサンに『同曲の音楽的な根拠や正統性』を説明して、何とかレコーディングが実現できたのです。

『Please Please Please』はR&Bチャート最高6位。その後数年に渡って売れ続けて、最終的にゴールド・ディスクを獲得します。


『Please Please Please』以降は、ヒット曲に恵まれずに、56年~57年はツアーに明け暮れました。

彼のライブ・パフォーマンスを見た人々の多くが、レコードではなく彼個人のファンとなっていったのは間違いないです。
しかし、こんな状況下、バンドの維持が財政上困難になっていき、フレイムズは解散し、JBは一人で活動を続ける方法しかありませんでした。

「俺は生き残りたかった。俺は靴磨き小僧であり、刑務所に入った前科者であり、用務員であり、七年生に満たない教育しか受けていない。こんな前歴の持ち主にそんなにたくさんのチャンスが来るもんじゃない。それが現実だ。」

JB論 ジェイムズ・ブラウン闘論集1959-2007より抜粋

Try Me

レコードのセールスもパッとしないことから、元々JBの音楽性を全く信用していなかったシド・ネイサンは、彼との契約を打ち切る寸前でした。

そこでJBはクリント・ブラントリーで費用を出し合って、1曲のデモを作成しました。その曲が『Try Me』

1958年9月18日

JBは約1年ぶりにキング・レコードのスタジオでレコーディング
12月のR&Bチャートで第1位。ポップ・チャートも50位以内に入るヒット。

このヒットの勢いで、アポロ・シアターの公演が実現したのです。


シド・ネイサンとの確執

キング・レコードは、家具商だったシド・ネイサンが1943年にシンシナティに設立しました。当初はカントリー&ウェスタンをリリースするレーベルだったのですが、大手レコード会社が黒人音楽を十分取り上げていないことから、リズム・アンド・ブルース市場に参入しました。
アメリカ・レコード業界で最初に人種統合された企業の1つとして、1 週間以内に曲を録音し、その録音をプレスして配布できる数少ないレコード会社の1つとして注目されました。

シド・ネイサンの音楽業界での評判は悪評だらけでした。

「真に風変りな人物の一人で、粗野で人使いが荒く、金払いの悪さと思い遣りが無く、独裁者のようにレーベルを支配して、常に叫び、アーティストや従業員を脅迫していた」

唯一高評価したのはアトランティックのジェリー・ウェクスラーです。

「きっちりと、やるべきことをやったレコーディング業界のパイオニアの一人」

「金を払うのは自分なのだから当然のこと」として、そしてキング・レコードでの全セッションのプロデューサーも兼ねていました。

そんな強烈な個性のシド・ネイサンと、白人に”おもねらない”強烈な個性の持ち主(自信家で自己中心派)のJBと、相性が良いはずがありません。


「ライブ・アルバムが売れるはずがない」とシド・ネイサンが資金提供を断ったにも関わらず、JB自らレコーディング費用を捻出してまでアルバム『Live at the Apollo』を1963年5月にリリースします(録音:1962/10/24)

『Live at the Apollo』は、14か月間以上にR&Bチャート・イン、最高2位。1963年の年間チャート32位にランク・インする前例のないR&Bレコードの大ヒット作品に。

シド・ネイサンは、反対にも従わずに自分の考えを突き通して最終的には大きな結果を残すJBに対して、気持ちとしては「不愉快そのもの」だったはずです。
しかしながら、商業的な成功をもたらしたJBの功績は認めざるを得なかったでしょう。


JBはシド・ネイサンに対して次のコメントを残しました。

"I would be telling a lie if I said I would be a world star without the help of men like Mr. Nathan. He was the first one willing to take a chance on me."
「ネイサン氏のような人の助けがなければ、自分が世界的スターになれないと言ったら嘘になる。ネイサン氏は私にチャンスを与えてくれた最初の人だった。」


「楽に成功する方法などない。懸命に働いて、頑張るだけだ」


この男の音楽に独自の香りを与えているのが、その何事にも動じない自己中心性であることは間違いない。そこに問題があるとするなら、そのツケはどこに?おそらく、ブラウン自身に跳ね返ってくるだろう。自称全能ゆえに孤立する背負う男のところに。

クリフ・ホワイト曰く(イギリスの音楽評論家・ジャーナリスト)


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