見出し画像

PhotographySocialFrame #05

展示をします。

タイトルは「PhotographySocialFrame」
100枚の写真で構成された作品です。

なぜいま写真の展示をしよう思ったのか、考えていることと制作過程を、日記的に残していこうと思います。
もしビビッと来たら、展示へ是非お越しください !

PhotographySocialFrame
Toshiki Okamoto

2023.12.23 - 24
東京 原宿 デザインフェスタギャラリー EAST 302



写真は、言語だと思う。
テキストとイメージは同じものだ。
同じ事をしている。
それはコミュニケーションだ。
文字も写真も、視覚によってあらゆる情報を伝達することができる。
言語は文字というビジュアルコミュニケーションの形を持っていて、その方法を探っているのが前回記したタイポグラフィだ。
では、言語では表しきれない物事はどうやって伝えるのか。
感情や、感覚、記憶、何とも言いようがない心の状態。
嬉しいのか悲しいのか分からない。
そういう曖昧なものを伝えられる手段の一つが、写真だと思っている。
写真は、言葉にできない物事を語る。
現実の光を切り取る事で、感覚を具体的な形に定着することができる。
カメラは不思議な装置だ。
ただ風景を切り取っているだけなのに、そこには撮影した当時の感情と時代が色濃く染み付いている。
それは僕の意図というより、撮ったらそうなっていた、というような半自動的な感じだ。
特にiPhoneというカメラは、日常的に使っていて身体が馴染んでいるので、撮りたい、と思ってから撮るまでがとても速い。
身体が勝手に動いたのか、写真フォルダに入っているけど撮ったのを覚えていない写真もある。
5年間そうして撮りまくった数万枚の中から100枚を選ぶ過程で、撮影者の僕自身が何か伝えたいことがあるというよりは、僕はただの媒介、メディアになっているのだと気付いた。
この、話者が意図を持っていない、という状態がアリになるのも写真という言語の面白さだ。
僕が撮りたいと思った景色や瞬間を撮ったものではあるけど、そこに伝えたいメッセージは特になく、ただ目撃した瞬間を記録し続けているような感覚なのだと自覚した。
試みていたのは、時代のアーカイブだった。
2020年前後の世の中を生きていて、日々考えたことや感じること、僕というフィルターを通して見た当時の世の中を、この100枚は曖昧に記録していると思う。
さらに、これらの写真を見た人は、僕が何を記録しようとしたらていたかは知る由もなく、その人の記憶に重ねて新しい風景を見るだろう。
この曖昧さのまま、かつここまで具体的に鑑賞可能な形で記録をすることができる言語は、写真だけだと思う。
この100枚を見た人は、何を思うのか、何を思い出すのか、どんな風景を見るのか、それが知りたくて、見せる場として展示をやる。
だから、1人でも多くの人に見てもらいたい。
是非お越しください。
僕が見たものとは全然違うものを見たら、一番面白いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?