氷の下に

 肌寒くもない、冷たくもない。生存に適した温度湿度に調整されているのが、生きた心地を感じさせない。無機質なライドに乗っていると、自分が今どこにいるのか、本当に氷の下数千mに向かっているのか怪しくなる。さっきまで窓の外に見えていた荒涼とした氷原が懐かしいぐらいだ。私と、同席するクルスナに会話は無い。テラの爬虫類を思わせる外見をしたクルスナからは、私が同じテラから読み取れるような表情は伺えない。私と彼(と言うべきなのだろうか、翻訳音声が男性のものだったためそういう印象だが、そもそもクルスナは単為生殖だ)との間には、この10分間、沈黙だけが流れ続けていた。
 静寂に耐えかね、口を開く。
 「なぜ、私を呼んだのですか」
 喉元に装着した翻訳装置から音声言語と思しき音の羅列が微かに聞こえる。クルスナの言語はテラの可聴領域ギリギリのため、それは掠れたような囁きにしか感じなかった。
 一拍置いて、クルスナ(そういえば、私は迎えの彼のことをなんと呼ぶべきなのだろう)の方も喉を少し動かす。少し遅れて、相手の翻訳装置から声が流れ出す。
 『あなたがテラにおいて、優秀な冷水生物群集の研究者であると聞いたためです』
 誤解もいいところだ。私は確かにテラに残った数少ない、テラの生物を研究する生物学者の1人だが、優秀とは程遠い。星間学会に呼ばれたことも、インパクトのある論文を発表したこともない。単にもう私以外に同じ分野の研究をする者がいないだけの話だ。
 どうやって誤解を解こうか、と逡巡している間に、ライドはこの、クルスナの管轄下にあるエウロパ型惑星の海底に到着したようだった。
 研究に行き詰まりを感じてここに来てみようと思ったが、長居は無用だ。用件だけ聞いたらさっさと帰るようにしよう。第一、あの寒々とした氷原の下の、光とは無縁の世界に何がいるというのだろう。私の分野は多細胞生物、それも大きなものだ。縁がないわけではないとはいえ、微生物は専門外だった。
 ライドの扉が開き、クルスナに案内されてやはり無機質な施設の奥に向かう。数キロに及ぶ氷の下の、更に十数キロに及ぶ水の下にいるとは思えない。水音もなく、辺りには静寂だけが充満していた。
 『こちらが、観察室になります。生態系への影響を鑑みて、普段は明かりを消してあります』
 そう言って彼が扉を開いて見せたのは、大きな黒いガラス質の窓のある部屋だった。彼が片方の腕を振ると、室内に明かりが点灯し、窓の外にも赤い光が灯った。
 『どうぞご覧ください』
 促されて、恐る恐る窓に近づいて覗き込む。
 窓の外には、赤い光に照らされて、魚、いやどちらかと言うとイカのような鰭を持った小型生物が群れ泳いでいた。砂地の海底にはあちらこちらに球形の、イソギンチャクに似た生物が生えている。メタンかなにかだろうか、しきりに泡のようなものが、あちこちから噴き出している。
 驚愕して、思わず彼の方を見る。彼はそのままの表情で続けた。
 『この場所の生態系を解明するロジックが我々にはありません。また、自分の住まう惑星の生態系を解明するのは、決して恥じることではない、そうあなたが思っていると言うのが、我々のロジックに引っかかったのです。だからあなたを呼びました。片手間でよろしいので、協力していただきたい』
  なんだそんなことだったのか、それなら迷いはない。私は快諾しようと、彼に喋りかけた。
  とても大きな、この部屋よりも大きな生物が現れ、砂の中の何かをしきりに咀嚼している。さっきの小型生物の親玉のような、イカに似た鰭と、下向きの口のような穴を持った生物だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?