相談

 「弟とちょっと喧嘩しちゃって」
 そう彼は言った。逆立った頭頂部の毛が、ビル風を浴びて揺れている。
 常に小さな喧嘩は絶えないという彼らだが、翌日にはすっかり忘れて仲のいい兄弟に戻っている、というのが彼の仲間の話だった。いつも一緒に居るはずの彼らが別々に行動しているというの自体珍しいことであり、こうして片方だけが思いつめた顔で話をする、というのは初めてのことだった。
 「弟が、旅をしたいって言い出したんです」
 私は答えない。このような相談は時折受けてきたが、私自身、ただ黙って聞くだけで、何も役に立つことは言えずにいた。いつものことだ。多くの者たちは、言うだけ言うとすっきりした顔になって、また日常に戻っていく。
 「弟は、以前みたいに近くまで旅をするんじゃなくて、人間の言う他の地方まで、旅をしてみたいって言うんです。僕はそんなの危ないし、いつ帰って来れるか分からない、みんなに心配をかけるからやめた方がいいって止めるんですけれど、全然聞かなくって、それで喧嘩しちゃって」
 私に言えることは何もない。彼は彼、弟は弟、私は私だ。今だからこそ、そう言える。だから、止めることもできなければ、旅立ちを勧めることもできない。きっとなんだかんだで互いに一緒に居ることの多い彼らだ、きっと兄が説得して、弟はひとまず留まるのだろう。私がそう思いつつ、黙ったまま彼を見た時だった。
 「ここに留まっているだけじゃなくって、もっと広い世界を見てみたい、それでまた、この街に戻って来たい、そう、弟は言うんです」
 広い世界。
 その言葉が、頭の中に引っ掛かり、ある者を、思い出した。
 束縛していたのは、私だった。あの時彼らが切望していたのは、広い世界で、そこに生きる者たちの一部となって、生きてみたいということだった。様々な者たちと出会って、私は、彼らを旅立たせたのだ。
 ―――いいのではないか。
 初めて、彼の相談に答えたかもしれない。私は小さな黄色い影をしっかりと見据える。
 そうして、少しだけ、私が以前いたあの大地の話をした。私もまた、仲間の旅立ちを拒んだ身だったと。でも考えを変えて、彼らを見送ったと。
 彼は最初戸惑い、途中泣きそうな顔になりながら、最後には切なそうに微笑んで、苦しいですね、とだけ言った。そして、軽く礼を言うと、また帰って行った。
 遠くに見える時計塔が、橙色に染まる。夕焼け空が、明日もまた会おうね、と言っている。
 広い世界を見てきたからこそ、今ははっきりと言うことができる。
 ―――私はここにいる。
 久しぶりに、その言葉が漏れた。
 「兄貴、行った?」
 そう物陰から伺ってきたのは、頭頂部の毛が逆立ってない方の、ピカチュウだった。私が見送った彼に、そして、あの人間が連れていたオリジナルに、どこか似ている気がした。
 「俺も相談があるんだけどさ、ミュウツー」
 兄を連れて行きたい、と言い出した彼に、今度は沈黙するようになった私の顔は、少しだけ、綻んでいた。

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