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5日目:おしいれ【押し入れ】→掌編小説

おしいれ 【押入れ】
日本間で,ふとんなどをおさめるために設けた作り付けの物入れの場所。普通,中棚を設け,前面に襖(ふすま)を立てる。

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母を驚かせようと、押しいれにはいり、襖を閉めた。
まだ小さかった体を荷物の隙間に忍ばせると、不思議と安心したことを覚えている。

玄関が開く音につづいて、「ただいま」という母の声が聞こえた。
「あっちゃん、いないの?」わたしを探しはじめた母の声は、遠くなったり近くなったりした。
しばらくして、襖の隙間から母の姿がみえた。
「あっちゃん?」母を驚かせるタイミングをさがしながら、ぐっと唾をのんだ。
母は大きく息を吐いて、畳のうえにぺたんと、力なく座った。押し入れを飛び出そうと襖に手をかけたとき、母が鼻をすすりあげる音が聞こえた。
「もういや」
確かに、母の声がそう言った。わたしの手は固まって、動かなかった。
母は力任せにぐいっと目元をぬぐって、ゆっくりと立ちあがり部屋を出ていった。

足音の向かったほうへ行くと、台所で母がぼんやりとした表情をして座っていた。
「あっちゃん。どこにいたの?」母の声は、いつもより力がなかった。なにか言葉を発してしまったら、堰き止めているものが溢れそうだった。
「変な子」そう言って母は、なにも言わずに首をふる私を、ひき寄せて抱きしめた。
あのときの母は、たぶんいまの私よりも若かった。

押し入れにはあの日のまま、たくさんの荷物が詰め込まれていた。父から、「遺品が側にあるとつらいのに、なにも捨てられない」と電話があり、母の遺品整理のために3連休をつかって帰省した。
母を構成していたものを、ひとつひとつ手にとる。
母の使っていたタオル、母の着ていた服、母の匂いのする化粧道具。
これを私に捨てさせようとするなんて、父はずるい。

母の匂いを求めて、もう大きくなった体を、無理やり荷物のあいだにすべりこませた。襖の隙間から部屋を眺めていれば、当時の母がもう一度やってくる気がしたけれど、母のため息も、鼻をすすり上げる音も聞こえない。

泣いていた母に会えるなら、私はどんな言葉をかけるだろう。
「ごめんね」「ありがとう」「ちゃんと大きくなったよ」
そんな言葉をつぶやきながら、私はいつまでも、母の声が聞こえてくるのを待っていた。


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