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才能という言葉の逃げ

僕が幼い頃、テレビでニュースを見ていたとき。
卓球の愛ちゃんが子供の頃、泣きながら卓球台と向き合う姿が流れてた。
そして彼女はオリンピックにも出ていた。


夏休みの帰省の定番であった甲子園を見ていた時
マー君とハンカチ王子の試合をテレビで見ていた。
本当にものすごい試合だった。


その当時「最年少記録」や「〇〇世代」などを作る彼らは
その当時の僕より年上の人たちだった。



いつからだっただろう。
自分より若い世代が活躍し出して、
それを見て最初の頃は
「この人俺より若いのにすごいじゃん!」
とかって思ってたけど、
もうそんな人ばっかりになって、それが普通になってきた。




才能の塊で、努力も惜しまず、その環境もしっかりあり、
それでいてそういう人の中でも一握りのスーパースターが
世の中の注目を集める。
本当にかっこいいし、すごいなあと思う。



いつもそういう人たちを見ると、
「才能」という言葉を思い出して、すごく切なくなる。


約30年生きると、否が応でも自分に才能がないということは分かる。
小さい頃から考えると色んな事をやってきたけど、まあどれも飛び抜ける程の才能なんてなかった。
飛び抜ける才能どころか、人よりも優れたものもなかった。
それはもう分かっている、理解している。


ボランティアに来たってそうだ。
インドネシアで活動をしているけど、
彼らに貢献出来る様な特殊な技術もなければ知識もない。
他の隊員は空手を教えたり、お茶を教えたりしてるけど
そういう特技すらない。


9月にマレーシアに旅行に行ったときに、
日本のバンドのワールドツアーがたまたまあって、
友達に誘われて行った。
最近の音楽事情に疎すぎて全然知らなかったんだけど、
日本では今ではフェスにも出て、ZEP東京を満員にするくらいすごいバンドだった。
ライブに誘ってくれた友達が、バンドのメンバーの同級生だったらしい。
ほぼほぼ同い年だった。



日本の彼らの活躍からは想像出来ない程の小さいライブハウスで
すごくアットホームで素晴らしいライブだった。
そのライブには日本からもファンが来てて、
ライブの後にはメンバーとおしゃべりしたりサインもらったり。



そういうのを目にすると、何だろう、未だに悔しいなってどこかで思ってしまう自分がいる。
才能に溢れ、それを発揮して世界を楽しませている彼らを見て、
いいなあと、嫉妬する自分がどこかにいる。

そんな自分を感じると、情けないなあと思ってしまう。
何の才能もなかったじゃないか。
何の特技もなかったじゃないか。
目立つことも、人より優れていることもなかったじゃないか。
それなのに嫉妬するなんて、お門違いもいいところだ。



でもきっとそれは違う。
彼らは確かに才能に恵まれていたのかも知れない。
生まれながらにしてそういう環境に恵まれていたのかも知れない。

それでも彼らにあったのは、才能なんて形の見えない何かなんかじゃなく、
一つのことにただただひたむきに打ち込む、
辛いことや嫌な事をも乗り越えて、それでもそれを続ける、
そういうことだけなんだろうなって思う。
言葉が薄っぺらくなってしまうけど、努力が出来ること、それこそが才能なんだろうなあ。



もちろん、その中でもオリンピックでメダルを取るくらいの様な人は
才能ってものがあるんだろう。
でもきっとそんな人でも常人では考えられないくらいの努力をしているはず。
才能がない人が出来ることはもう、努力をすることくらいしかない。
そしてその努力を出来る才能があるかどうかが、
どういう方向性を目指すんでも大事になってくるんだろう。


才能なんてあやふやなものじゃなく、
何かをしっかり続けられるような、そんな努力が出来る様な人間なら
どこかの方向でもしかしたら日の目を見るかも知れない。




お門違いなのは才能がないという言葉で逃げているから。
不甲斐なく思うのは、才能がないからなんかじゃなく
それの背後にある努力を知った上で、それが出来ない自分に気づいているから。
嫉妬しているのは、才能ではなく、
たくさんの困難に打ち勝ってそれでも一つを極めるその意志に。



なんでもいいから、小さなことでもいいから、活動とは関係なくてもいいから、
インドネシアにいるうちに、何か一つは形として残せたらなあと思う。
ちゃんと努力しよう。しっかり一つのことに打ち込むことが出来る、意志のある人間になろう。

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