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内と外

「塩田千春展:魂がふるえる」を見に行って、考えた。作品レビューではないなにか。


皮膚とはなにか

内と外 2009年 塩田千春)
人間の皮膚(ひふ)が第一の皮膚、服が第二の皮膚、部屋の壁や窓が第三の皮膚 と考えた、窓の作品。

まずは人間の皮膚。皮膚は、身体の表面をすっぽり覆っている。自身の領域の最も外側を隔ている境界線にあたる、存在である。
他者からみれば、皮膚の内側にいるのがその人自身であり、多くの場合はその皮膚の上から、その存在を感じている。

続いて服。服は、身体の外側を覆うのに、一般的に広く用いられている。
日常的に人々を区別したり、存在を感じる事がができるのが服の外側からであり、その人の一部として考えることもできる。
ただし、服は着脱が容易なので、その人自身ではない。
服は時として、自身を覆い隠す存在であったり、自身を虚飾するものであったり、自身を表現するものだったりするのかもしれない。

そして部屋の壁と、建物を外部から遮断する境界だと考えると、皮膚は外壁のような存在と言える。その中で、窓にフォーカスするなら、内側の住人からしてみると、外を視覚・聴覚で感じる事ができる機能を持っているという点で、皮膚のもつ役割とリンクする部分があり、興味深い。

窓の作品を通して、内側と外側について思ったのは、窓の内側には、取っ手がついているに対して、外側には取っ手がついていない。
当たり前なんだが、窓を開くのは、内側が主体なんだなと、改めて考える。

集められた窓は、ベルリンの壁が取り壊され、その後再開発が進む中で、廃棄された建物の窓との事。
かつてこの窓が、内側と外側をどのように隔てたり、感じていたのか。
そして新しい窓が、これからの、ベルリンをどのように感じていくのかについて、思いを馳せてみるのもよいかもしれない。

実在と不在

静けさのなかで (塩田千春 2008年
焼けたピアノと、焼けた椅子が演者と聴衆のように配置され、無数の黒い糸が天上に広がっている。そしてその黒い糸は弧を描きながら、ピアノと聴衆不在の椅子を結びつけている。
椅子はそれぞれ異なる作りで、大人から子供まで、異なる聴衆が存在しているかのように感じられる。

時空の反射塩田千春 2018年
立方体の中に2つのドレスが抜け殻のように浮かんでいるような作品。
不在の存在とはなんだろうか。そこに無いのであれば、単に不在なのだが、どこか存在しているもしくは、過去に存在した痕跡として感じられる何かがそこに在るということなのかもしれない。

存在しているときは、目に見えるものが、そのまま物体として感じられるが、不在の場合は、目に見えない。
そして、不在は、ただの物体では無い何かの存在を想起させる。

魂とはなにか

魂とは、生(せい)の中に存在し、その体を操る宿主として、心・意識、記憶を単一化した概念だと思う。
だから魂は、通常、死によって消滅するものだと私は思う。

もっとも、トランスヒューマンとしては、それをテクノロジーの力で、その消滅を遅くしたり、意識を別の体に転送する事で、魂をもう少しばかり延命したいと思っている。

魂について(2019)映像作品
映像作品の中で、少女が、「閉ざされれていた部屋が、ふとした時に開かれるように、記憶が蘇る」というような感じの話が、印象的だった。

そう考えると、魂というのは、どんな場所にあってもよいのだろうが、外側の存在に対し、時々呼応する存在でなければならないと思った。


関係 (Relations)

塩田千春の、ヒトやモノ、あるいは概念の関係性を視覚化したアート作品の数々。

私も、気になったキーワードを集めて、関係性を見つけて、文章を作成し、リンクするという作業を日々繰り返している。

ソーシャルメディアを通じて、文章を読んだり、いいねしたり、新たにアップする時にも、魂は、かすかにふるえているのかもしれない。

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余談だが、展示をまわってる時、外国人がpixelって、picture cell(写真の細胞)に由来してるんだよと、同伴に説明していて、へえそうなんだ。なかなかいい言葉だなと思った。

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