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ラッパ屋「コメンテーターズ」を観て

観劇にさえある種の覚悟と強い動機を必要とする今、数ヶ月ぶりに劇場に足を運んだのは、よりによってラッパ屋の舞台だった。

出所後の最初の食事に、町の食堂でのしょうゆラーメンとカツ丼を選んだ、高倉健 in the 幸せの黄色いハンケチ的なことかもしれない。違うかもしれない。

改めて言うまでもなく、ラッパ屋の舞台は、現代の軽演劇、新喜劇だ。そこには、演劇原理主義や演劇の教育的効果など、微塵も存在しない。
ただ、私たちのような中年が舞台にも、そして客席にも楽しそうに存在しているだけだ。

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(以下、ネタバレ少しだけ有り)

今回の題材は、TV局のワイドショーのコメンテーターたちのバックステージを中心に、いつものようにざっくりとした群像・軽演劇だ。

自意識と、他者の評価。
楽屋と本番。世間と社会。
年相応と、年甲斐の無さ。
わかりやすい二律背反の価値観の中で揺れ動く登場人物たちは、いつものラッパ屋舞台と同じく、市井の生活者の「こんなことあればいいな、なくても幸せだけどな」を描く。

しかし、目の前にしてみると、かつての当たり前は今、こんなに難しいことに見えるのか。

もっと言えば、人間が軽くあることがなんて難しいご時世なのか。

コロナ禍以降、私たちは自分の身体と他者との境界を嫌というほど意識するようになった。
だからなのか。舞台に立つ、ラッパ屋の全く“特権的”でないその寄る辺ない身体が、私たちが置かれている状況を鋭く象徴しているようにも見えた。

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ここ数年ラッパ屋の舞台を観てきたが、今回はとても胸に迫った。
これが言わずにおれるかという彼・彼女の気概が、隠すが故に浮かび上がったからかもしれない。
30代引きこもり息子のモノローグ構造が、3周くらい回って、案外功を奏していたのかもしれない。

新喜劇的なのに少しだけ哀歌に聞こえる瞬間があるのは、もちろん私の、観劇へのちょっとした覚悟も影響している。

過酷な環境ほど表現者も観客も、研ぎ澄まされる。

カーテンコールに並んだいつものラッパ屋と客演のそう若くはない面々に拍手を送りながら、なぜか、まるで真逆の、テント公演でびしょぬれで誇らしげにおじぎをする若い役者たちの姿を思い出していた。

うん。今夜は町の中華屋で、瓶ビール飲もう。

そう思って覗いた店は、緊急事態宣言下、ことごとく終演後の20時には営業終了していたのだった。

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(おしまい)

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