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村上春樹が描く「孤独と共生」~卒論(75,512文字)公開する~_7

一連の公開済みは村上春樹についてひたすらに長い卒論にまとまっています。

2‐5‐5 弱さ=歪み


四作品を通して、「弱さ」が重要な要素として登場する。これは、『ノルウェイの森』における「歪み」と同様の意味ととれる。

「俺はきちんとした俺自身として君に会いたかったんだ。俺自身の記憶と俺自身の弱さを持った俺自身としてね。君に暗号のような写真を送ったのもそのせいなんだ。もし偶然が君をこの土地に導いてくれるとしたら、俺は最後に救われるだろうってね。」
「それで救われたのかい?」
「救われたよ。」と鼠は静かに言った。(村上,2004d:223)
「弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ。俺は十代の半ばからずっとそれを感じつづけていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか、君にわかるか?」(村上,2004d:224)
「弱さというのは遺伝病と同じなんだよ。どれだけわかっていても、自分でなおすことはできないんだ。何かの拍子に消えてしまうものでもない。どんどん悪くなっていくだけさ」(村上,2004d:225)
「(中略)一人で知らない土地を歩きまわっていれば、少くとも誰にも迷惑をかけずに済む。結局のところ」(村上,2004d:225)
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」(村上,2004d:228)


2‐5‐6 デタッチメントの不毛さ


『1973年のピンボール』では、ピンボールがデタッチメントの比喩として登場し、デタッチメントの不毛さ、デタッチメントだけでは生きられないことが伝えられる。

以下の引用の「ピンボール・マシーン」を「完全なデタッチメント」と置き換えるとその意図は伝わる。
「ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。」という箇所からは、完全なデタッチメントの不毛さが読み取れる。

あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。…
あなたがピンボール・マシーンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、…。
しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。…まるでピンボール・マシーンそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
永劫性について我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し量ることはできる。
ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。
良きゲームを祈る(村上,2004b:29-30)


2‐5‐7 コミットメント


『風の歌を聴け』では、例えば以下のようにコミットメントの必要性が示されている。

「文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。」(村上,2004a:30)
「立派な人間は自分の家のゴタゴタなんて他人に話したりしないわ。そうでしょ?」
「君は立派な人間?」
15秒間、彼女は考えた。
「そうなりたいとは思ってるわ。かなり真剣にね。誰だってそうでしょ?」
ぼくはそれには答えないことにした。
「でも、話した方がいい。」僕はそう言った。
「何故?」
「第一に、どうせいつかは誰かに話すことになるし、第二に僕ならそのことについて誰にもしゃべらない。」(村上,2004a:79-80)
「時々ね、誰にも迷惑をかけないで生きていけたらどんなに素敵だろうって思うわ。できると思う?」(村上,2004a:93)


次の箇所では、「全ての物事を数値に置き換えずにはいられない」ことがつまり表現でありコミットメントへの挑戦を示している。
主人公は「そんな風にすべてを数値に置き換えること」で「他人に何かを伝えられるかもしれない」と考え、更に、「他人に伝えられる何かがある限り僕は確実に存在しているはずだ」と考えていた。

他者に伝える存在理由があることで自分の存在を確認できる、コミットメントができるということである。

僕は依然、人間の存在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。〈表現、コミットメント〉約8か月間、僕はその衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、階段の数を全てかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
その時期、僕はそんな風にすべてを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝えられる何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。(村上,2004a:95-96)

また、『1973年のピンボール』では、デタッチメントがただ格好良いという時代から、コミットメントの必要性へ移行しているような記述がある。

理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。(村上,2004b:6)


2‐5‐8 デタッチメントの確立 「影」について


『ダンスダンスダンス』での登場人物である五反田は、主人公の同級生であり芸能人として華やかに生きている好青年である。
そんな五反田は、「自分から求めると、みんな僕の手の指の間からするっと逃げていくんだ」と言うように、求めるものはあるが得られない、という悩みを抱えている。その原因は、デタッチメントとコミットメントの境界線が鼠と同様曖昧であることだろう。

五反田を通して作品では、デタッチメントなしにコミットはないこと、またデタッチメントなしのコミットはあっても危うく脆いものであることが伝えられている。

五反田の次のセリフは、まさにデタッチメントなしのコミットメントの危うさを伝えている。

「(中略)僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」(村上,2004e:296)


五反田はデタッチメントの確立ができている主人公のことを羨むが、主人公はその理由が理解できない。

僕は一人でいることを好み、一人でいるときの自分を信じることができたけれど、当然ながらたいていの場合一人にはなれなかった。家庭と学校という二種類の強固な枠の中に閉じ込められて、は苛立っていた。
(中略)僕は自分一人の世界を構築し、その中で生きていた。
(中略)どうして彼が僕をうらやましがらなくてはならないのだ?(村上,2004e:380-381)


五反田は鼠同様、自分自身と他者に向けた自分の部分との境目で悩んでいた。デタッチメントとコミットメントの境界線である。
鼠の「セックス・アピール」と五反田の「演じている自分自身」は同じ意味のものである。
そして、他者とコミットするほどにデタッチメントに逃げたくなっていった。それは、五反田がデタッチメントの確立ができていないために、コミットすればするほどにその陰で自分自身が失われていく不安があったためである。

たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。(中略)そういう無意味で卑劣なことをやることによってやっと自分自身が取り戻せるような気がするんだ。(村上,2004f:329)


五反田は猫を殺したり物を壊したりといった破壊本能の原因を、そうしたデタッチメントとコミットメントの両立への葛藤だと自覚していた。
「その自己破壊の可能性を弄ぶことでやっと自分を現実の世界に結び付けていた」のだ。

清水良典は『村上春樹はくせになる』(朝日新聞社)の中で、この五反田の「自分自身」と「演じている自分自身」とのかい離について言及している。五反田の破壊本能はデタッチメントの確立への希求から起こっている。清水はこの破壊本能を発揮する五反田の「自分自身」を、ユングの用語である「影」だという。社会的に作られた外面的な役割としての人格を持つ自分はユングの用語では「ペルソナ」であるが、そこから望ましくない人格として排除された、生きられなかったもう一人の自分が「影」である。人は自分のペルソナや影と対面し、意識と無意識の働きを統合することで自己の全体性を確立できる。(清水,2006:162)

五反田はペルソナである「演じている自分自身」と影である「自分自身」とのギャップに悩んでいた。
その二つと対面し統合することができなかったのである。
それは「自己の全体性の確立」が出来なかったということである。

ここでも、デタッチメントの確立なしに世界にコミットしていくことの難しさが読み取れる。


2‐5‐9 デタッチメントとコミットメントの両立


作品中、さまざまな比喩を通してデタッチメントとコミットメントの両立可能性が問われていく。

こんなのもあった。『優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。』(村上,2004a:67)

また、『風の歌を聴け』の最後の箇所であらわれる「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」という文は、作品を通してその両立可能性を問うてきた中で、でもやはりできるものか、と疑問を残している。

『1973年のピンボール』では、主人公と双子はこんなやりとりをする。

「二つの対立する考え方があるってわけね?と208。
「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」
「殆ど誰とも友達になんかなれないってこと?」と209。
「多分ね」と僕。「殆ど誰とも友達になんかなれない」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。(村上,2004b:40)


また、『ダンスダンスダンス』で主人公が思いを寄せるユミヨシはデタッチメントとコミットメントの境界線、両立で悩んでいる。
ホテルはコミットメントの場であり、ホテルで働いていると、自分自身とホテルの境界線が見えなくなってしまうというのだ。

「…境界線が見えなくなっちゃうの。私という存在やら感覚やら私生活やらがホテルという宇宙の中にひきずりこまれて消えちゃうの」
「誰だってそうなんだよ。みんな何かにひきずりこまれて、境界線が見えなくなっちゃうんだ。君だけじゃない。僕だって同じだよ」と僕は言った。(村上,2004f:219)

更に、『ダンスダンスダンス』で少女ユキは、他者の存在により自分自身を自分でコントロールできなくなることを悩んでいる。
これもやはり境界線の問題であり、両立の問題である。

「ママと一緒にいるとね(中略)どうしてもママの気分にひきずりこまれちゃうのよ。そういう意味ではあの人は強い人だから。影響力があるのね、きっと。あの人、まわりの人間がどうこうなんて全然考えてないから。自分のことしか考えてないのよ。そういう人って強いのよ。わかるでしょ?それで巻き込まれちゃうの。(中略)」(村上,2004f:282)
「(中略)自分自身をうまくコントロールすることができなくなることがあるの。何か外の大きな力に操られているような気がする。そうなると、どこまでが自分でどこからが自分じゃないのかがわからなくなってくる。(中略)」(村上,2004f:290)


村上作品の数々、村上のインタビューをとおしてデタッチメントとコミットメントの両立に際して「自分の立ち位置を確認すること」が重要な要素であるように語られる。
他者も含めた世界を眺め、その中での自分の立ち位置を確認したり、それらと自分との距離を「ものさし」で測ったりすることが、デタッチメントの確立になるし、良いコミットメントの基盤になるという村上の提示が読み取れる。

電気時計を眺めている限り、少くとも世界は動きつづけていた。たいした世界ではないにしても、とにかく動きつづけてはいた。そして世界が動きつづけていることを認識している限り、僕は存在していた。たいした存在ではないにしても僕は存在していた。人が電気時計の針を通してしか自らの存在を確認できないというのは何かしら奇妙なことであるように思えた。世の中にはもっと別の確認方法があるはずなのだ。しかしどれだけ考えてみても適当なのは何ひとつ思いつけなかった。(村上,2004c:112)

「世界が動きつづけていることを認識」する、つまり、コミットメントの場を確認することにより、自分は存在するのだと確認できるのである。

『村上春樹の「物語」―夢テキストとして読み解く―』(新潮社)で河合俊雄は、自分の立ち位置を把握することについて二つのスタイルを挙げている。
一つは、自分をはっきりと定位し、そこから明瞭に対象を決めたり求めたりするスタイルである。
二つ目は、自分という定点も対象という定点も持たず流れていくスタイルである。(河合俊雄,2011:137-138)
四連作の主人公はこの前者に違いない。後者のスタイルを持つ人にとっては、この主人公のスタイルは確固としてクールに見えるかもしれない。


2‐5‐10 人生になにを求めるか③


四作品は『ノルウェイの森』同様、「人生になにを求めるか」が重要な要素となっている。
『ノルウェイの森』との違いとして、四作品では特に、「人生になにを求めるか」をわかっていることがデタッチメントとコミットメントの両立に必要な要素として示されている。
人生に何を求めているかわかっていれば混乱せずに「結び目」を機能させることができる、ということが四作品をとおして示されるのである。

『1973年のピンボール』では主人公は「何処まで行けば僕は僕自身の場所を見つけることができるのか?」と、自分の人生の方向性を模索している。

『ダンスダンスダンス(上)』では、主人公は羊男に対して、人生の方向性がわからず苦しんでいることを伝える。

僕が何とか自分の生活を維持していること。でも何処にも行けないこと。何処にも行けないままに年をとりつつあること。誰をも真剣に愛せなくなってしまっていること。そういった心の震えを失ってしまったこと。何を求めればいいのかがわからなくなってしまっていること。僕は自分が今関わっている物事に対して自分なりにベストをつくしていることを話した。でもそれは何の役にも立たないんだ、と僕は言った。自分の体がどんどん固まっていくような気がする。体の中心から少しずつ肉体組織がこわばって固まっていくような気がするんだ。僕はそれが怖い。僕が辛うじて繋がっていると感じるのはこの場所だけなんだ、と僕は言った。僕は自分がここに含まれているように感じてきた。ここがどういう場所なのか僕にはわからない。でも僕は本能的にそう感じるんだ。僕はここに含まれているんだ、と。(村上,2004e:174-175)

それに対して羊男は主人公が「何を求めているのかわからない」のだといい、そのために何処に行くべきかわからないのだという。
いろんなものを失いながらいろんな繋ぎ目(=結び目)を解いてしまった、そして今主人公は羊男がいる部屋にしか結びついていないのだ、と。

「(中略)あんたは自分が何を求めているのかがわからない。あんたは見失い、見失われている。何処かに行こうとしても、何処に行くべきかがわからない。あんたはいろんなものを失った。いろんな繋ぎ目を解いてしまった。でもそれに代わるものがみつけられずにいる。そして実際に何にも結びついていないんだ。あんたが結びついている場所はここだけだ。」(村上,2004e:179)
「でも僕は何かを感じるんだよ。何かが僕と繋がろうとしている。だから夢の中で誰かが僕を求め、僕のために涙を流しているんだ。僕はきっと何かと結びつこうとしているんだろう。そういう気がするんだ。ねえ、僕はもう一度やりなおしてみたい。そのためには君の力が必要なんだ。」(村上,2004e:180)

デタッチメントに自分を置いていた主人公は「もう一度やりなおしてみたい」と言う。
この「君の力」とは「結び目」、「繋ぎ目」のことであり、『1973年のピンボール』の「配電盤」と同様の意味である。
それは、人生になにを求めるかがわかってさえいれば得られるものであり、デタッチメントとコミットメントを繋いでくれるものである。

「(中略)あんたはこっちの世界でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を止めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。(中略)」/
「ねえ、君の言うこっちの世界というのはいったい何なんだい?君は僕が固まると、あっちの世界からこっちの世界に引きずりこまれるという。(中略)」/
「(中略)あんたは今はまだここでは生きていけない。ここは暗すぎるし、広すぎる。(中略)」
「あまり時間がない」/
「今僕はこうしてはっきりと君の顔や形を見ることができるようになった。昔見えなかったものが、こうして今見えるようになった。どうしてだろう?」
「それはあんたが既に多くのものを失ったからだよ」/
僕は疲れて脅えていた。そして一人ぼっちだった。(村上,2004e:183-187)

主人公は「うまく何かを求められなくなってしまった」ことや「何を求めているのか明確にしなくてはならない」こと、「何を求めているのかが把握できていない限り」他者を傷つけていくだろうことを自覚する。

僕はあの羊男の世界を通じて――彼の配電盤を通じて――いろんなものと繋がってるのだ、と彼は言った。そしてその繋がりに混乱が生じているのだと。どうして混乱が生じたのか?僕がうまく何かを求められなくなってしまったからだ。だから結び目がうまく機能しなくなってしまったのだ。
僕は自分が何を求めているのか明確にしなくてはならないのだ。そして羊男の助けを借りて、物事をひとつひとつ繋げていくのだ。状況がどれほど漠然として見えても、ひとつひとつ我慢して辛抱強くほぐしていくしかないのだ。ほぐして、そして繋げる。僕は状況を回復していなければならない。
(中略)自分が何を求めているのかが把握できていない限り、別れた妻が言うように、僕はいろんな相手を傷つけていくことになるだろう。(村上,2004e:200-202)

そして羊男の部屋でのやりとりからしばらくたった後、主人公は少女ユキに対してこう言う。

「みんなはそれを逃避と呼ぶ。でも別にそれはそれでいいんだ。僕の人生は僕のものだし、君の人生は君のものだ。何を求めるのかさえはっきりしていれば、君は君の好きなように生きればいいんだ。人がなんと言おうと知ったことじゃない。」(村上,2004e:234)

また、羊男が主人公が年をとるにつれて繋ぎ目として具体性を強めてきたことについてこう書かれている。

「(中略)僕が年をとるにつれてね。何故だろう?僕にもわからない。たぶんそうする必要があったからだろうね。年をとっていろんなものをなくしちゃったから、そうする必要が出てきたんだろうな。生きていくために、そういうものの助けが必要になったんだろう。」(村上,2004e:391)

「そういうもの」とは「繋ぎ目」のことである。
年をとっていろいろなものを失っていくにつれて、デタッチメントに移行していった主人公だが、生きていくためにコミットメントへの「繋ぎ目」が必要になるのである。


2‐5‐11 立ち返り


『1973年のピンボール』の「孤独な湖」と同様の意味だととれる表現は「古い光」である。

僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩かに放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。(村上,2004b:166)

上の箇所は主人公が以前プレイしていたピンボール・マシーンと再会した場面である。

ピンボールはこの小説において「立ち返っていく場所」、「孤独な湖」である。

同じ『1973年のピンボール』の中で鼠が「ベッドの上で何度も自分の両手を眺め」、「恐らく誇りなしに人は生きてはいけないだろう。でもそれだけでは暗すぎる。あまりにも暗すぎる」と考える場面があるが、上の箇所はその答えだろう。
誇り(自分の自信)なしに生きられずそれだけでは暗いが、古い光(立ち返っていく場所、繋ぎ目)があればそれと共に人生を歩んでいけるのである。

また、『ダンスダンスダンス(上)』では「心の一番柔らかな場所」というものが出てくる。

僕は本当に哀しくなった。涙が出そうなほどだった。ときどきそういうことがある。何かがちょっとした加減で、僕の心の一番柔らかな部分に触れるのだ。(村上,2004e:40)

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土屋 夏美

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村上春樹についてひたすらに長い卒論

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