団塊の世代ジュニアの少年時代(本編)

 私が自然に興味がを持つようになったきっかけはなんなのかと聞かれると、小学校3年生の頃の話からはじめないといけない。
 大阪府吹田市という社会科で習うところの大阪の衛星都市の吹田で少年時代を過ごした。吹田市立山手小学校が私の母校。我々世代の多くは小学校時代に新しく小学校ができて、学校が二つに分かれるというのを経験していないだろうか。山手小も3年生に上がるときに片山小学校ができて、8クラスから4クラスに減った。
 4年生に上がるとき、担任の先生が変わった。上田先生から土屋誠一先生に変わった。確か当時31歳だったのではないかと思う。当時の担任の年齢まで今でも覚えているというインパクトのある先生がやってきた。3年生の時は女性の先生で、初めての男の先生だったのではないかと思う(1、2年生は確か水田先生?)。

 4年生の時は、1981年。ルビーの指輪が大ヒットし、なめ猫の免許証を持ち、ポートピア万博が開かれ、阪神にいた江本が”ベンチがアホ”といって現役引退した年であった。
 土屋先生はある意味、今まであったことの無い大人であった。夏は半袖短パンにビーチサンダルで授業をしていた。一年中真っ黒に日焼けしていて、黒い顔しか思い出せない。
 学級文庫の内容が変わった。ちょうどこの歳にアウトドア雑誌ビーパルが創刊されたのだが、確か第一号から学級文庫に加わった。のちに自分で購読するようになるのだか、小学校の時は教室で読んでいた。
 また、漫画のカムイ伝が並ぶようになった。当時は週刊少年ジャンプが毎年のように発行部数を伸ばしている状況の時代。ドクタースランプアラレちゃんが大流行していた。”んちゃ”といい、走るときには両手を開いて、”キーーーん”と言って走っていた。
 なのに、学級文庫にはカムイ伝。結構小学生にはどぎつい描写もあったが読んでいた記憶がある。

 小学生の子供が二人いるが、毎日どんだけ宿題があるのかというぐらい宿題を毎日遅くまでやっている。理解しているなら無駄な反復練習する必要は無いから答え写していいと言っている。でも答え写すのでも時間がかかる。
 自分が息子と娘の頃、こんなに宿題ばかり毎日していた記憶はない。ドリルをやっていた記憶は確かにある。結構宿題忘れていく方であった。
 今、そんなことしたらワイドショーネタになってしまうが、当時宿題忘れると、1mの物差し(黒板で使うやつ)で、尻を叩かれた。宿題よく忘れていったので、なんども叩かれたの覚えている。大体誰か宿題忘れてくるので、結構な頻度で物差しが登場する。結果、折れる訳です。今考えると年に数本、物品購入依頼で物差しが上がるということどう説明していたのだろうかと。また、宿題忘れてくると廊下でやらされました。宿題終わるまで授業受けられなかった。これも今考えると虐待ですね。そんなこと、私だけでなく当時の小学生は程度の差はあれ、そんな先生学年に一人はいたよねという会話にならないだろうか。

 冬になると、ストーブが教室にやってくる。天板の真ん中に穴のあいているストーブ。写真のこれ。

画像1

 冬の間、給食の時間はこのストーブの天板部分の場所取り競争となる。
普通の先生ならそんなこと許さないんだろうけど、コッペパンにあの四角いバター挟んで、ストーブの上で焼いて食べたほうが美味しい訳です。
 真ん中の丸く穴のあいた部分は、土屋先生の優先場所でありました。丸い穴に、アルマイトのおかず入れをはめておくと、冷えたおかずも暖かくなるので。先生が使い終わったら我々も使っていいという暗黙の了解があったのです。
 こうして、変わった先生の行動に感かされていく小学生となっていきます。

続く。



 



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