団塊の世代ジュニアの少年時代(残酷編2)

 ロケット花火の話をしたら、爆竹の話をしないわけにはいかない。爆竹といえば、中国の春節祭の映像で見るぐらいになった。田舎でもいっとき、猿を追い払うのに爆竹を使っていたようだが、彼らもアホではないので、慣れれば逃げなくなる。獣害対策は、初めは効果があるが、学習すると気にしなくなってしまう。
 18年前、郡上へ移住してきてから、地域の子供達が爆竹で遊んでいるのを見たことがない。自分の子供が、ここで書いているような遊びをしだした年齢に達し、そのような遊びをしないことに気がつく。火遊びをしないのはあまり良くないと思い、私が庭で薪割りなどしているときに、たまに焚き火をさせて経験させている。とにかく、火を大きく安定させることを知らないのだ。
 

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  私の子供の頃もこんな柄だったような気がする。とにかく赤い箱だった。当時これが200円で売っていた。売っているのは駄菓子屋。
 他でも売っていたのかもしれないが、私の周りは駄菓子屋で買っていた。
当時、近所に駄菓子屋が何軒かあった。街のパン屋さんにも駄菓子は売っていたが、駄菓子しか売っていない店があった。大抵おじいさんとおばあさんがやっている。私が通っていたのは通称”りんご屋”というお店。なんでりんご屋というのかはわからない。
 おじいさんとおばあさんが交代で店番しているのだが、対応が異なる。おばあさんがいる場合はハズレ。怖いというイメージが残っている。買うでもなく、物色していると基本煙たがれる。おじいさんの時は、たまにまけてくれる時があった。
 小学校時代、4年生になったら学年数×100円の小遣いをもらっていた。それをやり繰りして駄菓子を買ったりするのだが、十分な資金というわけでもない(駄菓子に全部使うわけにはいかないわけで)。
 ここまで書いて、駄菓子、駄菓子とお菓子に対して失礼な気になってきた。当時の我々にとっては5円、10円で何を買うかというのは結構な取捨選択だったのに(一番安いお菓子、5円だった)。
 お金もない、することもない暇な時は、1Lのジュースの瓶探しに放課後を費やす。当時、ガラスの1L瓶は、リターナル瓶だったので、30円で引き取ってくれた。今考えると、かなり環境に優しい。そうどこにでも落ちているわけではないが、今ほどリサイクルが整っていた時代ではなかった1980年代、まだ周りにいっぱい空き地があったこともあり、探し回れば見つかった。

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 それを酒屋に持って行くわけだが、あまりにも汚いと引き取ってくれなかった。明らかに落ちている物を拾ってきたことがバレバレだったので。そんな葛藤の中、30円をゲットできるのは、我々にとって、軍資金を得た気分であった。
 ビール瓶は5円で引き取ってくれるが、ジュースの瓶ほど落ちているわけもなく。今でこそ缶ビールが主流だが、瓶20本入りのケースで自宅に配達
が当たり前だったので、瓶ビールがそこらに転がっているという確率は低かった。
 そう、もちろん、自動販売機巡りは当たり前。這いつくばって、自販機の下に手を入れる。
 
 爆竹の話からそれました。本筋に話を戻します。
当時、低学年には爆竹を売ってくれなかった。なので、低学年時は爆竹遊びをするには高学年と一緒に遊ぶ必要があった。でもどうしても爆竹が欲しかったので、200円を渡して買ってきてもらった記憶がある。
 爆竹は20発がワンセット、それをバラして一本ずつ使う。春節祭のように音をメインに使うわけではないので、あくまでも何かを爆破するために一本ずつ使う。初めて体験した頃は、火をつけて、数秒後に”パン”というのが楽しくて、投げて遊んでいたが、そんなことは慣れてしまうと面白くなくなる。だから、何かを壊したくなるわけ。
 我々世代が必ず体験しているのは、導線が短く、投げる前に爆発して、手がジンジンして痛かった思い出。あの感覚は皆思い出すんじゃないだろうか。


 ロケット花火の話は、爆竹の進化系である。爆竹では面白く無くなったので、ロケット花火へと進化した。爆竹よりロケット花火の方が一発当たりのコストは高いわけで。
 小さい子でも安全な爆破は、アリの巣。火をつけて、アリの巣の入り口にさしておく。アリの巣の穴という穴を爆破して行く。
 私自身、カエルに爆竹を突っ込んで爆発させたという記憶がない。昆虫がメインだった。
 ここで、はまっていたプラモデルが活躍する。子供は飽きやすいので、もう興味が無くなった、プラモデルは爆破の対象となった。私はドイツ軍を作っていたので、兵隊や土嚢、ジオラマ作れるものが色々あった。

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 こんなのを公園の砂場に並べては、爆破していた。
今、こんなこと、いい大人がやっていると危ない奴で通報されるかもしれないが。
 
 長くなったので、また次回。

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