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八幡水力電気株式会社について③

大岡氏について。

 かくて、大岡氏の尽力にて工事間もなく落成して試験送電をなせるに、機械の不良なりしか、据付の不完全なりしか、発電所内に線香の如き火光を発するのみて、二三日試験せるも容易に電灯らしき光力を発せず、大岡氏の曰わるるには、水車にリングベルトを用ひしかば、其為めならんとて色々工夫を凝したるも面白からず、其翌朝早く大岡氏の旅宿を尋ねて、更に意見を聞かんとせるに、宿屋の女中曰く、大岡さまは今朝早く立ちになりましたと、

 地元の技術者が乙姫滝での発電は難しいと言ったが、大岡氏は大丈夫だといった。45kwどころか60kwまででると。しかし結果は上記の通り。
大岡氏は、とんずらをこいた。
 情報頂いた駒田さんが発電所ができた当時から電気を使っていた慈恩禅寺の住職さんに聞いたところによると、

 当時の発電は直流式、即ち、発電所に近い場所だと電力が強く、離れれば離れるほど弱くなっていったそうで、離れた農家の方が電灯を使った際、思ったよりも明かりが弱かったので、驚かれたそうです。

さて、大岡氏がとんずらをこいた後の顛末です。

 後に残れるは素人ばかりのこととて、施す術もなく大に当惑せられしが、兎に角最初某技師が水力不足なりと曰はれたから其為めならんとて、之を補はんか為めに、加納町の某氏に依頼して三四十馬力程の汽機を買入れ、水車と共に発電機を運転せしめ、不十分なから漸くの事で市内に送電点火するを得たり、

 水力では安定的な発電は無理と判断して、加納町の某氏は、ナベヤの岡本氏でしょう。岡本氏から火力の動力を購入しました。それにより何とか市内に電力を供給できるようになった。
 続きます。

 時に明治三十一年なり、此地方石炭は高価なれば新を使用せり、此水火両用の妙案は、水野氏の考案に成れるものなりしと、此補助火力工事の為め約五千円を費し、水力と双方にて一万五千円を支出せり、一ヶ年中水力のみにて運転し得るは、雨期水量豊富の時霞に一ヶ月若しくは一ヶ月半許りにて、ノヅルも最初大岡氏は径七分のものを用ひしが、其後大小各種のものを試用し、甚しきは一寸八分のものまでを使用したることあり、雨降れは水高増して大に円滑に運転すれど、水の減りたるときは、汽機は発電機のみならず直結の水車までも運転せしめねばならぬので、大層重くなり困りたることありと、それでかかる際には、重役を始め会社関係者の電灯は全部滅火して、常用縦に供給するなど、一通ならな苦心せりと、

 余計に費用が5千円もかかり、色々工夫するが、水力だけで発電できるのは水量の多い、一年の内1か月か1か月半しかなかった。
 水が少ない時は、発電機だけでなく、連結している水車まで火力で回さないとダメであった。そのようなときは、会社関係者の経営する会社の電灯を全部消して、供給していた。

大岡氏は初め浜松、豊橋等にて失敗の経験を重ね続も磨きたれば、此八幡こそは乾度うまく成功させますと、自ら公言せられし由なりしも、不幸にして此失敗に帰せしは遺憾のこと、

大岡正とはどんな人物であったのか。
中部のエネルギーを築いた人々から。 

 水力技師大岡正は、わが国水力発電のパイオニアである。遠距離送電の実用化に成功し、明治40年ころの水力ブーム期には中部地方を中心に数多くの水力発電所建設に携わった。大岡は、安政2年9月、旗本鳥山僖右衛門の子息として江戸牛込に生まれたが、同年10月に起きた安政江戸地震で両親を失い、同じ旗本の大岡家の養子となった。戊辰戦争の際は、榎本武揚の率いる開陽丸に乗船して奥州に向かおうとして失敗し、捕縛されたこともあった。

後、海軍省に入り、そこでアメリカにて、水力発電が勃興していることをしり、その世界で仕事をしたいと思うようになったそうです。
そして、

 37歳で水力技師に転じ、同年6月わが国2番目の水力発電所とて湯本発電所(直流25kW)を完成、湯本、塔ノ沢に電灯を供給した。森鴎外の小説「青年」にも発電所の灯りが出てくる。
 湯本発電所の完成以降、大岡は、浜松電灯富塚発電所(明治26年)、豊橋電灯梅田川発電所(同27年)、熱海電灯熱海発電所(同28年)、郡上八幡乙姫滝発電所(同31年)等を手がけるが、流量測定の不備、機械の不完全等の事情も重なってトラブルが続き、時には山師呼ばわりされることもあった。

 箱根の成功の後、3か所連続でうまくいかなかった大岡氏をなぜ、岡本氏は水野氏に紹介したのだろうか。
 大岡氏は浜松、豊橋と熱海の後、明治30年に岡崎の岩津発電所の成功があった。

 明治30年7月、中部地方で成功した最初の水力発電所として、岡崎郊外の奥殿村日影滝脇に水力発電所(50kW)を建設し、交流2000Vで岡崎町までの16㌔㍍の送電に成功した。この送電距離は水力発電の可能性を一挙に広げるもので、完成後は全国から見学者が相次いだ。
 岩津発電所は、33年12月に大岡の指導のもと増設(52kW)が行われ、岡崎電灯発展の礎となった。
 大岡は、岡崎電灯の関連会社、三河電力の発電所建設にも関わり、明治35年9月、矢作川の支流田代川に小原発電所100kWを建設遠距離送電の画期となった岩津発電所した。まず瀬戸町に送電し、余勢をかって名古屋へも供給を行い、名古屋電灯と熾烈な競争を展開した。
 岩津発電所の成功により、大岡は経験豊かな水力技師としての評価が高まった。明治30年代後半からの水力ブームを迎え、各地の水力事業者から相談が寄せられた。
 中部地方で関わった発電所には、
岐阜電気粕川発電所(揖斐川町)、中津電気大西発電所(中津川市)、巌倉水電巌倉発電所(伊賀市)、明知町営矢伏発電所(明知町)、福島電気杭ノ原発電所(木曽町)があり、このほか関西水力電気白砂川発電所(奈良)・布目川発電所(京都)、南海水力電気修理川発電所(和歌山)、甲府電灯芦川発電所(山梨)、鳥取電灯荒船発電所(鳥取)などもあり、大岡が生涯に関わった発電所は18個所に及んだ。
 仕事に忙殺される中、大岡の体は病に冒され、明治42年2月、自宅のある名古屋市で没した。享年54歳であった。

 大岡氏の手掛けた小水力発電所の中、3か所が失敗の後、岡崎での成功を受けて、岐阜電灯の社長、岡本氏の信頼を得たのだろうか。
 しかし、そのほか八幡で失敗したのちに、消えることなく実績を多く残したのに、なぜ八幡では逃げるようなことになってしまったのか。

 そんな大岡氏に対して、水野氏は、

其後水野氏は少しも大岡氏を追及せず、大岡氏又更に音信せず、其儘今日まで経過せりと

 地元の技師が無理だと言ったにもかかわらず、大岡氏を信じた自分が悪いとは考えたのだろうか。
 地元に必要な電気を自ら供給するのだという水野氏の思いが感じられます。

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