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『Adam』

1章

東京は火の海になった。
その後、一帯は茫漠としていた。
天は雲に覆われ、地は混沌として何もなかった。
闇が街を包んでいた。

神は仰せられた。「光、あれ」
瓦礫の下にボロボロの雑巾のように横たわっていた少年、一雄はその声を聞いた。
すると瓦礫が剥がされ、空の光が一雄の目に差し込んだ。

彼は喉が渇いていた。
神は仰られた。「水よ、あれ」
一雄はその声を聞いた。
すると雨が降ってきて、一雄の喉を潤した。

光を浴び、喉を潤した一雄は少し元気になってきた。
「ぐぅ」と腹が鳴って笑みがこぼれた。
そして崩れた街の中をヨタヨタと歩き出した。
先ほどの雨で街は少し静かになっていた。
空気中のチリやガスが地に落ちたのだろう。

神は仰られた。「地よ、あれ。草よ、あれ。」
一雄はその声を聞いた。
その声に導かれて少し歩いたところに、緑の草を見つけた。
それまで白黒だった町の景色の中で、その色はとても美しかった。
一雄は何も考えずにその草を食べた。

神は仰られた。「天の大空に光よ、あれ」
一雄はその声を聞いて、上を見上げた。
あたりは夕日で真っ赤に染まっていた。
火の海とは全く違う赤だ。
見とれて時間が経ち、月が出てくる。
そしてたくさんの星に囲まれた。

朝になって一雄は、昨日の空襲で一人になったことを知った。
涙は出なかった。
潰れた家の前で立ち呆けていると、一匹の黒猫が近づいてきて目の前に一匹の魚を置いた。
神は仰られた。「この魚を食べよ」
一雄はその声を聞いた。
瓦礫の中から使えるマッチを見つけて火をつけ、焼いて魚を食べた。
するとまた、さっきの黒猫が近づいてきて、火の横に一匹のスズメの死骸を置いた。
それも焼いて食べた。
少しお腹を壊した。

どこにもいく当てはなく、河原に向かった。
たくさんの人が河原にはいた。
とりあえず、空いているところにそっと座る。
そのとき、神は一雄の名を呼んで、仰られた。
「一雄、わたしがあなたを造った。
 この地で生きよ。わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたを養うのだ。
 わたしはあなたを喜ぶ。」
一雄は静かに祈り続けた

しばらくすると、食糧が河原に届いた。
トラックから配られる粗末な食事が、徐々に河原の人々に広がっていく。
そして少しずつ楽しげな声も混じる。
小さな笑い声が聞こえた。

目の前に広がる大きな川は、キラキラと輝いて、
今日という日を決してわすれないでいようと、一雄は決意した。

2章

しばらくは河原で過ごした。
1日に一回の配給で飢えをしのぐことができた。
食べて横になり、何もせずに1日が過ぎ、日が暮れると寝た。
そんな日々が1ヶ月続いた。

神は仰られた。
「おまえにふさわしい助け手を与える。
 それまではここで待ちなさい。
 ただ何も、盗んではいけない。」
一雄は静かに、その時を待ち続けた。

配給は不思議と、一度も途絶えることがなかった。
少しずつ、体力と元気は回復していった。
しだいに隣に同じように河原に住んでいる自分より年下であろう少年と仲良くなった。
名前はイブキと言った。
空襲の前からイブキには親も兄弟もいなかったらしい。
同じような境遇の子供らと共に生活し、生き抜いてきたという。
しかし空襲で、また一人になってしまったのだ。

イブキは焼ける前の街について、誰よりも詳しかった。
仲良くなると、どんどんと話が出てきて、とどまるところを知らないようだった。しかも面白い。
湧き水のように出てくる話と知識を、一雄は毎日楽しんでいた。

ある時、いつものように配給を受け取ると、後ろの方で叫び声がした。
「おい!俺のところまで届いてないぞ!!」
前を見ると配給をしてくれている人たちが、手を広げもう食糧のないことを伝えようとしている。
この河原には人がどんどん増えていっているのだ。
後ろの人は喚いているが、トラックは帰ってしまった。
その人だけじゃなく、配給を受け取っていない人はたくさんいた。

後ろでは落胆の声がする。
もう配給は手に入らないことがわかったのだ。
振り向くと睨まれそうな気がして動けなかった。
気の毒に思い振り返って誰かに渡そうと思って立ちあがろうとする一雄の手を、イブキは掴んだ。
「しーっ。食べた方がいいって。一人に渡してもなんもかわらんよ
 お腹空いてるよねぇ? 運が悪いのがダメなんだ。俺たちは食べていいんだって」
そういってイブキは身を丸くしながらムシャムシャと食べ始めた。

一雄も、配給を見るとヨダレが出るほどに腹は空いていた。
イブキは「大丈夫、大丈夫」と言いながらどんどん食べている。
そのとき一雄の口が緩んだ。
(そうだ、運が悪いのがいけないのだ。僕は運がいいから食べられるんだ)
そう自分に言い聞かせて静かに食べ始めた。

満腹になって空を見上げると、急に自分がちっぽけに思えた。
そして嘆く人たちの声の中、とても恥ずかしくなった。
(運が良いとはなんなのか。この状況のどこが運が良いのか。自分は何者なのか)
どこかに隠れるところはないか、と思ったが立ち上がることもできなかった。

その時、
一雄の名を呼ぶ声がした。
「おまえは何をしたのか」
一雄は答えることができなかった。
再び神は仰られた。
「おまえが盗んだことを、おまえはすでにわかっている」
緊張が走り、一雄は吐きそうになった。
そして心の中で神に応えた。
「ああ、神よ、わたしの罪をお赦しください。
 わたしは食べ物を渡せばよかったのでしょう。
 渡さずともせめて、分ければよかった。
 わたしが盗んでしまったことは、わたしにはわかっています。
 どうぞ神よ、わたしをお赦しください」

神は仰られた。
「隣の者に、おまえが伝えなさい。
 盗んではいけない。
 彼がおまえの助け手である」
一雄は驚いてイブキを見る。
イブキは何も気にしないまま、空を見てぼーっとしている。

一雄は再び、心の中で応えた。
「神よ、どうすればよいでしょうか。
 わたしに何ができるでしょうか」
神は仰られた。
「明日も同じことが起こる。
 その時あなたとイブキは、あの声をあげていた男とその家族に、自分の食糧を渡しなさい。
 おまえはわたしが養うのだ。だから、ゆけ」

一雄はイブキに一部始終を話した。
話すのが上手ではない一雄は、一言一言じっくり丁寧に伝えた。
そして先ほどの神の命令と約束も伝えた。
イブキは冷静な目で、何も言わずに一雄を見つめながら聞いていた。
そして話が終わると何も答えぬまま「寝る」と言って背を向けて寝転がった。

翌朝、目を覚ましたイブキは汗をかいていた。
「どうしたのか」と一雄が聞くと、
唾を飲みこんでイブキが、
「おまえの言っていた神が、俺の夢に出てきたんだ。とても怖かった。
 わかったよ。おまえと一緒に行くよ」

しばらくすると配給のトラックが来た。
今度も前から渡されていくがやっぱり数は足りなかった。
一雄はグッと渡されたパンを握り立ち上がって振り向いた。
そして食べ物が行き届いていないところまで歩いて行った。
イブキも黙ってついてきた。

泣いてる子供も、弱っている女の人も、しわしわのおじいさんもそこにいた。
イブキは泣いている子供に渡し、
一雄は昨日、怒鳴っていたおじさんに渡した。
ポツリと「ごめんなさい」と言って元の場所に戻った。

その時、トラックが再び荷物を詰めて戻ってきた。
昨日足りなかったために、追加されたのだ。
二人は受け取り、喜んで食べた。

3章

次の朝、イブキは怖い怖いと震えていた。

「また夢を見たんだ。
 神様が出てきて、すごく怒ってるんだ。
 オレはそれが怖くて仕方ないんだよ。」

一雄は不思議に思った。
夢には見たことがないが、一雄が聞く神の声は優しく力強い声だ。
畏れはあるが怖さはない。

寝る時、一雄は祈った。
イブキが安らかに眠れるように、そして神が、なぜ怒っているのかを問うた。
その祈りは煙となり、天まで届いたような気がした。

次の朝、イブキは不思議そうな顔をしていた。
「神様がオレに言うんだよ。
『なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
 もしあなたが良いことをしているのなら、あなたの祈りは受け入れられる。
 しかし、もし良いことをしていないのであれば、
 戸口で罪が待ち伏せている。
 罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。』

 オレは『え?』って。
 『いやいや、怒ってるのはあなたでしょう?』って。
 『オレは怖がってるだけでしょう?』って必死に訴えるんだよ。
 でも神様はじっとこっちを見てるんだ。
 オレにはその目が恐ろしく怖いんだ。」

「あのさ、、、」
喉の奥の方から、何かの力がかかって、
気がついたら一雄の口から言葉が出ていた。

「イブキ、恨んでいる人がいるのかい?」

ギョッとした顔になるイブキ。
静かにもう一度聞く。
「恨んでいる人はいるのかい?」

「な、なんだよ、一雄。
 なんで急にそんなこと」
「わからない。
 でも、僕はイブキのこと好きだよ。本当に友達だと思ってる。
 だからこそ、聞かなきゃいけないと思ったんだ。」

しばらく黙りこくってイブキは、静かに話し始めた。
「、、、、親だよ。」

「オレは生まれてすぐ親に捨てられたんだ。
 一緒に住んでた兄ちゃん姉ちゃんたちに拾われたんだ。
 同じような、親や兄弟に見放された子どもだけで住んでいた。
 そこで育ったんだ。
 そりゃ悪いことはたくさんしたさ。たくさん盗んだ。力も使った。
 そうしなきゃ、生きていけなかったんだ。
 戦争してんだ、日本は。本当に大変だったよ。
 楽しいこともあるよ。みんなでいたら孤独も少しは和らいだ。
 でも、辛かったよ。

 オレは親を恨むよ。オレを捨てた親を恨むよ。
 なんでオレたちだけこんな目にあわないといけないんだよ。
 そりゃ怒るよ、、、」

イブキの目は血走っていた。
力がこもった、怖い目をしていた。
そしてぽろりと涙が溢れた。
一雄も泣いていた。

「、、、そりゃあ、そうだよな。
 僕も腹が立つよ。イブキをよくもって。

 でもさ、僕はさ、、、
 こんなことになる前は、お父さんもお母さんもいて、弟と妹たちがいて、
 そんな人がいるなんて、思いもしなかったんだ。
 ほんとうにごめん。
 悪いことをする人を軽蔑してたよ。
 なんでそんなことをするんだろう。
 ダメだなぁ。腹が立つなぁって。
 だけど、イブキに出会って、僕は驚いたんだ。
 こんなに面白い人がいるんだって。
 君がする話はとっても面白くって、腹の底から笑えたんだ。
 本当に腹の底から。

 ああ、すごいなぁ。大変なところを戦ってきたんだなぁ。僕にはその辛さがわからないかも知れない。
 でも今、こんなことになって少しだけわかるかも知れない。
 だからこそ、イブキのことを尊敬するんだ。
 面白かったんだよ、ほんとに。救われたんだ。

 イブキが生きてきた道を、僕には何を言うこともできないし、僕は尊敬する。

 でも神様が、
 心の中で神様が言うんだ。
 それは人殺しだよって。
 その怒りは、恨みは、憎しみは、人を殺し続けているんだよって。
 その罪はあなたを支配しようとし続けるって。

 そして僕こそ、イブキを、イブキみたいな人たちを、
 殺し続けた悪人だ。

 本当に、ごめん、な、さい」

二人でボロボロと泣いていた。

泣き止んだ時、イブキはすっきりした顔で一雄を見た。
「お前が泣いてくれたからもういいわ。
 今日夢の中で神様に言うよ。もういいですって。
 オレからはもういいんですって。」

その夜、一雄も夢を見た。
神様の姿は見えなかったけど、
自分の口から出た白い息が、天高く上っていって消える夢。
息が消えるとやけに肺がスッキリして、体の中に悪いものが一切ない気がした。

目が覚めた時、声がした。
「この場所を離れよ」

イブキの顔を見ると、目が合い、
イブキはにっこりと笑った。

4章

天涯孤独となった二人。
しかし、二人は二人となって歩き出す。

「この場所を離れよ」
と、言われてすぐに二人は川下の方に向けて歩き出した。
海の方に行けば何かあると思ったのだ。

空襲で焼けたところがあちらこちらにあり、近くにはとても作物ができるようなところはなかった。
もともと畑だったところも、もはやいくら耕してもダメなように見えた。
多くの人が彷徨い歩いている。
自分達の今までいた場所が、どれだけ幸運だったか、恵まれていたかを知った。

道中、大きな犬がついてきたから仲間にした。
寝るときには二人で抱きしめて寝た。
暖かかった。

その頃、大阪の方で、一人の若者が名を上げていた。
暴力と狂気で多くの者を支配していた。
その名も「海(カイ)」であった。

カイには弟がいた。空(ソラ)と言った。
弟と二人、二人だけで育った。
しかし今、カイは一人となった。

海に捨てられていた二人。
拾ったおっさんに名付けられた。
そのおっさんには物乞いの道具として育てられ、
殴られながら大きくなった。

カイが10歳、ソラが7歳になった頃、
寝ているおっさんの頭をかち割り、そのテントを飛び出した。

空腹の中、二人で夜通し走り、朝日の中でやっと腰を下ろした。
そして生きるために盗んだ。

そのうち、親のいない子が集まってくる。
カイはまとめ上げ、ソラが世話をした。
子供達はカイを恐れ、ソラを慕った。

「あほか!これぐらいいけるわい!」
「兄ちゃん、まだこいつらには無理やって!危なすぎるて!」
「ふざけんな!おれらこのぐらいの時からやってるやろが!」
「おれたちとこいつらは違うやんか!あかんて!」
「なんやねん!死んでまえ!」
小屋をバンと出ていく。

腹が立つのは、あいつを見ているガキどもの目や。
そんで俺を見るときの目や。

淀川の河川敷を歩く。
黒く濁った心から、低く重たい声がする。
「怒りがあるのか」

黒い心はさらに深い黒になる。
「あいつらのためにやってきたことだろう」
再び声がする。
それによって怒りが増し加わっていった。

足が重く、闇にひきづり込まれそうだった。
振りほどくように川沿いを歩き続けた。

橋の下に女がいた。
その女と目が合い、女の唇がカイの目をひきつけた。
そこで初めて女を知った。

女に金を渡したとき、プツンと何かが切れた気がした。

暗い道を歩いていると、向こうから走ってくる影があった。
ソラの次に歳上のエノだ。
「カイ、ソラが死んだぞ。街で殴られて、」

そこからカイは勢力を拡大していく。
容赦のない復讐と非情さのゆえに人が集まり、恐れられた。
そして運送業界、芸能界、武器製造へと支配を広げてゆき、富と権力を増していった。

組織の名前は『バビロン』であった。

5章

一雄とイブキが河原を離れて半年が経った頃、
二人は牧場にいた。

歩き始めて、二人が拾った犬はまさに、神からの使いのようだった。
川に入ると魚を取ってきて、食べられない野草には吠えた。
犬のおかげで、二人は食うに困ることはなかった。
犬は「セツ」と名付けた。
あまりにもセッセと働くからである。

数日間歩いたある昼下がり。
橋の近くに一人のおじいさんが座っていた。
セツがそこに近づいていって、隣に座った。
一雄は話しかける。
「大丈夫?なにか食べる?」
おじいさんの声は思ったよりも元気だった。
「おお、ありがとう。何かくれるかね。」
そこで二人と一匹は、川から魚を取ってきて焼いた。
二人もそこでご飯にすることにした。
おじいさんはムシャムシャとそれを食べた。

「君たちはどこへ行くんだね?」
おじいさんは静かな声で尋ねた。
「わからないんだ。でも神様が行けっていうんだ。」
「そうか。」
「じいさんは?」イブキが聞く。
「わしはここが目的地じゃ。わしの人生はここで終わるじゃろう。」
二人は冗談かと思って笑ったが、おじいさんは続けた。
「このまま、ゆけ。
 神がお前たちと共にいる。
 私はエノク。お前たちと同じように、神と共に歩む者だ!」
おじいさんが本気の目をしていることはわかった。

焚き火の火が消えつつあったので、二人はそろそろ行こうかと立ち上がった。
おじいさんは最後ににっこりと笑って、二人に手を振った。
「ありがとう」と言い残し、出発した。
風が吹いて振り返ると、そこにおじいさんの姿はなかった。

しばらく行くとセツが一匹の羊を見つけた。

こんなところになぜ?と二人は思ったが、その答えはすぐにわかった。
セツが吠えて羊を走らせるとその先に羊の群れがいたのだ。
さっきの羊が群れに合流し、どの羊だったかもわからなくなったころに、一人の大きい男が近づいてきた。
「ありがとう!羊が一匹迷子になって困っていたんだ!」
一雄はもっさりと生えた男の髭をカッコイイと思った。
「君たちが見つけて連れてきてくれたんだね?」
山男はグイグイとくる。
「い、いや、この僕らの犬がやったんだ」
「おおー!そうか!賢い犬だ!」

そこに声がした。
「この男のところに行け。そこに住め。その心は良い。」

男は言った。
「僕のところに来ないか。この前、牧羊犬が死んでしまったんだ。
 君たちが来てくれると助かる!もちろん一緒に住んでくれたらいい。」

丘を登っていった先に牧場があった。
馬、牛、羊、山羊、いろいろな動物が広大な土地にいた。
そして大きな木の看板が立てられていた。

牧場の名は『Noah’s Ark』であった。

6章

牧場での暮らしは平和そのものだった。

牛の乳は何にもまさって美味しかった。
毎日ではないが、今まで見たこともないような量の肉を食べることができた。
畑で採れた野菜は尽きることがないかのように思えた。
朝は早いが、すべき仕事が終わると、緑の草の上で雲が流れるのを見ながら寝そべって過ごせばよかった。

戦争は2ヶ月ぐらい前に終わったらしい。

山男は日本人ではなかった。
名前をノアと言った。
一人でこの牧場をやっているらしい。
家も小屋も暖炉も風呂も、すべて自分で作ったという。

ある時、ノアは言った。
「戦争で、日本は混沌の中にいる。暴力で満ちている。
 僕はこの場所でそんな人々を慰めるためにここに牧場を作ったんだ。
 ここには平和がある。飢えて死ぬ恐怖からは自由だ。
 ここにきて、みんなに休んでほしいんだ。」

その数日前に柵を壊され、羊や豚を盗まれ、その子たちを思って泣いていたノアを見ていた一雄は、
そう言える彼をすごいと思った。

「洪水が起こる。備えよ。」
冬が始まろうとしていた頃、一雄の上に声が響いた。

一雄はイブキとノアのところに走った。
「洪水が起こる。備えないといけない。
 塀を高く強くしなければならない。
 森からやってくる動物たちも匿ってやらなければならない。
 そこでは血は流されることはない。
 ノアの言う通り、ここは平和の園となる。」

「驚いた。お前は預言者なのか。」
ノアが目を丸くしている。
イブキはじっと一雄の目を見ている。

一雄は続ける。
「海から一番低いところは15メートルの高さにしないといけない。
 塀に水が染み込まないようにしないといけない。
 入ろうとする動物たちは入れるようにしないといけない。
 それらの動物のためにも食物を集めないといけない。しかしそれは与えられるし、良き量も教えられる。」

三人は全てそのようにした。

7章

12月、中旬。

すべてが整った頃。
動物たちが集まってきた。
小さな動物が逃げ込んできた。
大きな熊もきた。
猿や狐も来た。
鳥たちも牧場の中の木々に集まってきた。

そこには平和があった。
肉食の動物も草を食んでいる。
ノアには不思議だった。しかしノアは神を信じていた。
熊は静かに眠っていた。

犬のセツは賢く動き、動物たちをうまくまとめた。
それぞれの動物が固まって休んだ。
ノアと一雄、イブキは毎日エサを運んだ。
大小の鳥たちも集まってきた。

12月21日。
ついにその日が来たのだ。

一雄はその前の日の夜、言いようのない不安に包まれた。
そしてその時が近いことを悟った。

外に出てノアとイブキに告げた。
二人が家の中に入っていった後も、一雄は一人外に残り、星を眺めた。
胸に迫る不安と焦燥感から涙がこぼれた。

しばらくして、声がした。
「大丈夫。私がおまえと共にいる。」

その時、一雄の内にあった不安は、水の上を波紋が広がっていくように、平安に塗り替えられていくのを感じた。
一雄の涙は増した。

一雄は家に入り、3人は食事をし、共に飲んだ。
たくさんの言葉は出てこなかった。
食事が終わり、時が過ぎても誰も席を立とうとしなかった。

もうすぐ日が出てくるかといった頃、
大きな音がなった。
その直後に家全体が大きく揺れ始めた。

夕食後そのままウトウトとしていた3人は飛び起きた。
家の中のものがたくさん壊れる音がした。
みなで机の下に伏せた。

長い揺れが静まったと思うとまた揺れがきた。
そのようなことが何度も続き、外で動物たちが騒いでいる声がした。
そんな中で3人は不思議と冷静に、言葉を交わしていた。

揺れがおさまってきた頃、外が不気味に静かになった。
3人は外に出た。外の方がむしろ安全かもしれないと話していた。

外には群れごとに集まった動物たちが静かに伏せていた。
鳥も木々の止まり静かにこっちを見ていた。
建て上げた塀は無事だ。
ホッと安心してその先を見ると、
いつもは見えない海が見えた。

それは大きな波であった。
その波はゆっくりとこっちに迫ってきている。
波の下には街があった。

その時、一雄が二人の手をぎゅっと握った。
そして、震えた声で呟いた。
「あぁ、どうしよう。
 どうして僕はあの街の人たちに伝えにいかなかったのだろう。
 どうしてそのことが思い浮かばなかったのだろう。
 どうしよう、あの人たちが死んでしまう」

頭を抱えてその場にうずくまった。

波の方をまっすぐに見ていたノアが静かに言った。
「ぼくが言ったよ」

「ぼくが街に降りて、洪水が来るよって街の人たちに言ったよ。
 カズオとイブキは街にいくことはなかっただろう?
 だからぼくが言わないとと思ったんだ。
 街の人たちは外国人のぼくの話を笑っていた。
 怒る人もいた。
 でもぼくは伝えたんだ。だから大丈夫」

「帰り道、ぼくは悲しくなって神様に祈ったんだ。
 神様、彼らを助けてください。彼らはあなたのことを知らないんですって。」

そう言ったノアの声は震えていた。
一雄はノアの顔を見上げてゆっくりと立ち上がった。
そして真っ直ぐと波の方を見続けた。

波は塀のギリギリまで迫った。
それを3人はじっと見ていた。
牧場内は全く濡れなかった。
3人の手に力が入った。

それから雨が降ってきて、激しく降り続いた。
水は数日間、引かなかった。

8章

雨が止んで、塀の周りの水が引いていった時、鳥たちが飛び立っていった。

そしてそれから動物たちが牧場の外に出ていった。
それで完全に水が引いたのだとわかった。

一雄に声がした。
「外に出よ。
 街に行き、人々に食を分け与えよ。
 家を建て直し、住まわせよ。
 動物の衣を着せよ。
 すべては私が与える。私がおまえと共にいる。」

3人が街に降りたった時、言葉を失った。
建物はことごとく壊れ、人々はへとへとに疲れ座り込んでいた。
死体も転がっている。
一雄とイブキは東京の空襲の後の光景を思い出していた。

とにかく、飯を食わせよう。
3人は持ってきた大鍋を木材の上に置いて火をつけた。
そして肉や野菜を惜しみなくそこに放り投げていった。

その匂いに気づき人々が集まってくる。
ただただ来た人にスープを入れて渡していった。
ノアが作った木の器と木のスプーンと共に人々に行き渡ってゆく。
気がつくとそこには100人近くの人が集まっていた。

食べ終わると人々の表情は少しやわらいだ気がした。
空になった大鍋をどかし、周りにあった木材でさらに火を大きくした。
すると人々が近づいてきて暖を取り始めた。
ノアたちは凍えている人たちに動物の毛皮を着せた。
それは一雄に声がした後に3人の元に来た鳥や動物たちだった。

その後、再び牧場に戻り、木と皮で作ったタイコを持って降りてきた。
イブキに叩いてくれと言うとノアはその前に立ち、タイコの音に合わせて英語の歌を歌い始めた。
そして驚いたことに踊り始めた。

短い歌で、それを繰り返し、何度も何度も踊りながら歌った。
一雄もイブキも集まった人々も、目を丸くして見ていたが、歌が10周目に差し掛かった頃には一緒に踊り、あやふやな英語で歌い、笑っていた。
そして大合唱となって、さらに人が集まってきた。

何度も何度も歌って踊って、笑って叫んだ。
そして次第に涙が流れた。
あちこちから鼻をすする音がする。
歌は静まった。

するとノアが大きな牛を一頭連れてきて、そこで殺し、捌き、火で焼き始めた。
血が流れ、香ばしい香りが空に立ち上っていった。

静まりかえる中、ノアは静かな、しかし響く声で人々に語りかけた。
「みなさん、わたしはノアと言います。外国から来ました。
 この山の上で牧場をしています。

 わたしの国では、この世界を造った神様がいると、小さな時から教えられてきました。
 その神は、世界を愛していると、世界を守られているのだと言います。
 そのすることには何か意味があるのだと言います。
 そしてすべてのことは美しく働くのだと言います。

 神は決して生き物すべてを滅ぼすことはしないと約束されました。
 この地が続く限り、種を蒔く時があり、収穫をする時があり、暑い時と寒い時、昼があり夜があると。
 すべてが無くなったわけではありません。すべてが無駄になったわけではありません。
 今、わたしはみなさんの笑顔を見ました。
 みなさんが歌って踊る姿を見ました。
 みなさんの涙を見ました。
 共に食事をし、共に笑い、そして泣きました。

 わたしはみなさんと生きていきたいと思う。
 この地が続く限り、共に種を蒔き、収穫をし、暑い時も寒い時も、昼も夜も、苦しみも喜びも、共にしていきたいと思う。
 わたしのものはみんなのものです。全部分けましょう。
 わたしと共に生きてくれませんか?

 人には罪がある、とわたしの神は言います。
 幼いときから心に湧いてくる悪があると。
 それを人は隠すのだと。
 しかし、今、わたしたちは見せ合ったじゃないですか。
 もうこれ以上隠すものなんてないじゃないですか。
 わたしと友達になりましょう。
 わたしはできる限りのことをみなさんにしたいと思うのです。
 神様は今日この時のために、わたしをこの国に送ったんだと、今わかりました。

 わたしにあなたの足を洗わせてください」

奥の方から一人の男が近づいてきた。
ノアの前にひざまづき、絞り出した声で言った。
「わしはあんたが地震の前に街に来た時、怒って追い返した者や、、、
 ほんまに悪かった。わしのことは見捨ててもええ。でもこれだけ言いたかったんや。。。」

ノアは真っ直ぐに男の目を見て、男を立ち上がらせ、言った。
「大丈夫。大丈夫。謝ってくれてありがとう。さぁ、食べてください」
男はボロボロと泣きながら、肉を食べた。

その後に続き、みんなもノアに近づき、固く握手をして、肉を食べた。
ノアは湯を沸かし、それを持って人々の足を洗って回った。
一雄とイブキも回った。

洗い終わった頃に、一人の女の子が近づいてきた。
「ノアさん、わたしあなたに救われたんです!
 あなたが街に来て伝えてくれたから、わたしたち家族はいち早く逃げることができたんです。
 ほんとにありがとう!
 あなたの足をわたしに洗わせてください。」

彼女はノアの足を丁寧に洗い、そして口づけをしてにっこりと笑った。

9章

街は少しずつ建て直されていった。

牧場を広げ、家畜を増やした。
さすがに人々に食糧を与え続けることはできなかったが、ノアには森の知識があった。
牧場を囲む森から食糧を得る方法を、ノアはたくさん知っていた。
人々に罠の仕掛け方を教え、食べられる野草を教え、果実の調理と保存の方法を教えた。

なにもかもを一度失った人々は、喜んでこの新しい生き方に従った。
目の前にすることがあり、自分や家族の生き死にに直結する。
そこには不思議な充実感があった。
またノアの人柄は人々の焦りを癒した。

あの日、ノアの足を洗った女性はアカネといった。
ノアとアカネが仲良くなるのにそう長い時間はかからなかった。
アカネは心からノアを尊敬しており、ノアはあの日のアカネの言葉に心から感謝していた。

そのうち、一雄とイブキはノアに呼び出された。
「あの、結婚しようと思います」
照れ臭そうに話すノアに二人は拍手をした。
ノアとアカネが結婚するであろうことは周りの目には明らかだったし、みんなが期待していた。

アカネはよく働き、周りの人をよく助けた。
ノアよりもずっと年下だったが、一雄とイブキよりはそこそこ年上だった。

二人もよく世話をしてもらい、優しくしてもらい、叱られたりもしていた。

だから嬉しかった。
二人には母親がいなかったから。


一雄は”司式”というものを頼まれた。
二人の結婚を”祝福”するのだという。
読むべきセリフはノアが用意していた。


「神は今、祝福して言う。
 生めよ。増えよ。地に満ちよ。
 地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚があなたたちを喜ぶ。
 それはあなたにゆだねられている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物だ。
 神は人を神のかたちとして造った。
 だから殺してはいけない。誰の心も殺してはいけない。あなたが殺されないためだ。
 あなたたち二人は祝福の源となれ。
 人の手の業を喜べ。
 それはすべて神に許され、神に用いられる、意味のあるものだ。
 むしろ生かせ。
 あなたがたは生めよ。増えよ。地に満ちよ。」

一雄が牧場に集められた街のみんなと、新しい夫婦の前で大声で叫んだ。
口から出てきた言葉はノアが与えた言葉よりもだいぶ多かった。

一雄が二人の結婚を宣言すると、大きな拍手が起こった。
涙を流している者もいた。


「もうここに洪水は起こらない!」
そう一雄が叫んだ時、晴れていた空に大きな虹がかかり、人々は大きな歓声をあげた。

その時、一雄は、
「そうだ。もう起こらない。」
という声を聞いた。


そして、盛大なパーティーが始まった。
牛や羊が屠られ、ワインが振る舞われた。
すべて皆で作ったものだった。


ノアは酔い、みんなも酔って騒いだ。
キャンプファイヤーの周りを裸で踊った。
こんなに楽しい夜はなかった。

ノアはみんなに言った。
「みなさん!今日までわたしと共に働いてくれて、ついてきてくれて本当にありがとうございます!
 本当にみなさんはわたしの家族のように思います!
 これからも共によろしくお願いします!

 実は、、、
 わたしには傷がありました。
 わたしには憎しみがありました。
 隠していた恥がありました。

 わたしは故郷で大きな失敗してここニッポンにきたのです。
 逃げてきたのです。

 そのことをみんなには言っていませんでした。恥ずかしかったから。
 しかし、わたしは今、本当に幸せです。
 みなさんがわたしを救い出してくれました。
 わたしの傷を癒してくれました。

 こんなに嬉しいことはない。
 本当に、本当に、ありがとう。ありがとう。」

ノアの見せた裸の心を、バカにする者は一人もなかった。
そして会は続き、人々は代わる代わる自分の過去と今への感謝をノアに話しに来た。


話し声は夜遅くまで止むことはなく、朝には多くの人が牧草の上で寝ていた。

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