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小説『洋介』 16話

 6年生の一学期が始まって数日経った帰り道。
あの子と帰る。
僕らは、新学期が始まってからはほぼ毎日いっしょに帰った。

 その日、彼女はいつもと違う様子だった。
笑顔がなんとなく疲れている。
「なんか疲れてない?どうしたん?」
 と、聞いてみると、
「いや、疲れてないよ」
 と言う。
なぜかわからないが、この時ついムッとしてしまった。

「いやいや、疲れた顔してるやん。なんかあったんちゃうの?」
 と強めに言ってしまった。
「疲れてへんって言うてるやん!」
「いやいや、疲れてるって!
 別にええやん、疲れてるんやったら疲れてるで!」
「だって、別に疲れてへんねんもん!
 決めつけんといてよ!」
「いや疲れた顔してんねんて!
 いろんな人と話して疲れたんちゃうの?
 君は人気者やねんからしゃあないやんか」
「なんなんそれ!
 人気とか……。関係ないわ! あほ!」
 そう言って、走って行ってしまった。
初めてだ。ケンカしてしまった。

 呼び止めようとしたが、声が出なかった。
むしゃくしゃが止まらなかった。
なんでやねん、心配したったのに。
心にもやがかかって、頭がカーッと熱くなっていくのを感じた。

 少し歩くと河原に着いた。
まだ夕日じゃない。
土手に座りぼーっと川を見ていた。
その間に怒りは収まってきた。その代わり後悔が湧いてきた。
彼女の嫌そうな顔を思い出して悲しくなった。
ちょっと泣いてたな……。
嫌われてしまったらどうしようという不安で心が重くなった。

 そのうち、頭は思考の海を沈んでいった。
いつもなら1分もかからずに底までたどり着くのに、この日はいっこうにたどり着かない。
いつもより大きく固い凝りがある。
徐々に、頭の中にこりの正体が、ぼやっと浮かんでくる。

 怒り、だ。
思い通りにいかなかった。悔しい。思っていることが伝わらなかった。
苛立ち。
自分が良かれと思ってしたことが悪い結果になってしまった。
なぜ?
それらを混ぜ込んで「怒り」。

そしてその奥に見えてきたのは、なにかを急いでいた、焦りの二文字。
それを見ることを邪魔するように、いかに彼女がわかっていないかを訴える言葉が次々に浮かんでくる。
それが悲しくて、心を掻き乱されるのをグッと耐え、待つ。

その奥の奥に、本当の自分がいた。
自分が本当に好かれているのか、という不安で怯えた小さな自分。
早く認められたい、もっと好かれたい、嫌われたくない、価値のある人間でいたい。そんなふうに駄々をこねている自分。
そして、

「あぁ、やっぱり僕が悪かったんだ」
 と、ぽつりとつぶやいて、心は軽くなった。

 そう思ってすぐに、怒りや焦りが邪魔をしようとしたけど、少し待つと消えた。

 彼女に謝ろう。

 ふわっと爽やかな風が吹いて、熱を冷ましてくれた。
心はまだ静まりきっていなかった。
なにかが残っている。
完全に消えるにはまだ時間がかかるようだ。
頭の中はすでにすっきりしていた。
でもそれを心が否定したがっているようだった。
体の中に頭と心の二つがある。
もう少し待とう。

 そこからまた時間は経ち、心は静まり、こりは徐々にほぐれていった。
 だいぶほぐれた頃、気配を感じてビクッとなった。
そばに彼女が立っていた。
「えっ?えっ?」とかっこ悪いうろたえ方をしてしまった。

「さっきはごめんね。あと、ありがとう」
 彼女がそう言った。
「え? 僕が悪かったと思っててんけど……」

 あの後、彼女はうちに帰ってしばらく怒っていたらしい。
でも、そのまま家の中にいたくなくて、河原に来て、僕と同じように静まっていたらしい。
ちょっと離れたところにずっといたらしい。

彼女は丁寧に、自分の思ったことを話してくれた。
考える前にカッと熱くなって怒ってしまったのだと。
そのことを謝ってくれた。
実は言われた通り、ちょっと人と話すのに疲れていたらしい。
ただ、僕に言われたときには、自分が疲れているとは思っていなくて、なんとなくもやもやしていただけだった。
そこで核心をつかれたために、思わず突き放してしまった、と彼女は言った。
そして後になって自分が疲れていることに気づいた。
心配してもらったことはうれしかったけど、ついモヤモヤをぶつけてしまったのだと。
そんなことは初めてなんだと言った。

 僕は心がほっとした。
 心配してもよかったんだ。
 気持ちは伝わっていたんだ。
 誤解が生まれていただけだったんだ。


「あー、今日は良い日だな」
 僕がボソッとつぶやくと、彼女は微笑んだ。
彼女のことが愛おしくて、言葉の一つ一つがキラキラ輝いていた。
僕も静まりの中で気づいたこと、反省したこと、欠けていたと思うところを、丁寧に彼女に伝えた。

 仲直りの後、二人で静まり、力に包まれた。
さっきスイッチが入らなかったのがウソのように、スムーズに力が働いた。

あたりが薄暗くなって、石を降ろし、ふと顔を見合わせる二人。
なんとなく照れくさい。
でも今日はよかったな。
彼女を見ると同じ事を考えていると感じた。
暖かい光の中で二人は笑い合った。

 帰り道、小走りで帰った。
今回の喧嘩は、やはり二人ともいつもの調子じゃなかった。
嫌な力が働いたような気がする。
暖かい夕日の力とは反対の力も僕たちの周りにはあるのかもしれないな。

その晩、僕は自分の頭の中に飛び込んで、脳みその中にある静かな海を、
ゆっくりと沈んでいく夢を見た。
心地良い夢だった。

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