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スター・小室哲哉の還俗

音楽ナタリーの「小室哲哉、涙の引退会見『悔いなし、なんて言葉は出てこない』」を読んでいて、月並みだけど「人間・小室哲哉」という言葉が浮かんできた。

芸能人のプライバシーがどう扱われるべきなのかはよくわからない。本来論でいえば「職業に関係なくプライバシーは保護されるべき」なんだろうけど、そもそも論として「芸能界はある程度プライベートを含めてのイメージ商売」と言われてしまえば、そこを自分で選んだのだし「違う」ところにいることになる。だから「スター・小室哲哉」についてこうした報道が出ることの是非は、芸能界にそれほどの興味や思い入れのない僕には意見を持てない。

ただこの会見記事の言葉は、一つ一つが事実、実態、それから実感を伝えているなと。それもそれらを混同させることはなく、事実は事実として伝え、その時の気持ちは気持ちとして伝えてるなと。なにより「こう受け止めてほしい」みたいな思いや釈明は感じさせないなと。本当にこの件に抱くイメージは受け手一人一人に委ねて、実像を伝えることだけに勤めてるなと。

そう感じてしまって、ここにいるのはイメージ商売の世界の「スター・小室哲哉」ではなく「人間・小室哲哉」だ、イメージを提供する人ではなく実像だけで生きていく人なんだ、と思った。ファイナルライブのような形で舞台上に不滅の虚像を置いていく引退と違い、スターが人間に戻って舞台を降りていく姿に見えた。

ニュースはいつまでスター・小室哲哉の残像に向けて大声を上げ続けるだろう。人間・小室哲哉であるならば、責めるのも許すのも周囲の人だけでいい。スターが人間に還ることを受け入れられる社会は、そうでないより少しだけ優しい気がする。

(写真は「MTV Video Music Awards Japan 2014」のレッドカーペットに登場した小室哲哉。ライセンスはCC BY-SA 2.0。)

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