しあわせーストーカー_横_

しあわせストーカー日記|5.あ・い・そ・わ・ら・い・も・力尽きて

 ヘアメイクさんに髪の毛をセットされている鏡の中の自分を眺めていると、私はいつまでこんなことを続けるのだろうと、整っていく髪型とは裏腹に気持ちはどんどんすさんでくる。
 恋人がいる時は相手に好印象を与えたくて昼の仕事に就くけれど、相手と別れれば私はすぐに水商売に戻ってしまう。この仕事は大嫌いだったし、向いてもいなかった。いつまでもこうやってキャバ嬢をやれるわけではないのだから早く堅実な仕事に就かなくてはいけないと思いながらも、制約の多い昼の仕事には長く居場所を見つけられず、私は夜の世界からなかなか抜け出すことができなかった。
 
 恋の病で二週間も店を病欠したせいで、今まったくお金がない。家賃を払って貯金はゼロになった。本当はまだ働きになんて出ず家で千塚さんのことだけを考えていたいのに、稼がなければ生きていけない。私は酔客のくだらない冗談に笑い声を上げ、センスのない下ネタを受け流して、毎日店からもらう日払いで糊口をしのいでいた。
水商売の時給が昼の仕事に比べて良いとはいっても、そこからは天引きされるものも多く、売れっ子でもない限り手元にはたいした額なんて残らない。この一週間、私は毎日店に出て同伴もできる限り組めるよう頑張った。「シャイン」という店名が英語で表記されたこの日陰の店のエントランスをくぐるたび、なかば脅迫されているような被害妄想を覚えながら、私は毎日死体みたいな気持ちで出勤を続ける。

 ヘアメイクが終わってフロアに出ると、店長が「ナイス、唯ちゃん!」と私の源氏名を呼び親指を立ててみせた。相手の明るいノリにどう反応をしていいのか分からない。軽い会釈だけ返して、店長の後ろに付いて今日同伴で一緒に店に来たカズキさんの待つ席へと向かう。
 本当はカズキさんには私がまた店に出始めたことを言いたくはなかったけれど、同伴バックの五千円欲しさに今日の夕方ついに彼と連絡を取ってしまった。さっきの居酒屋で軽く飲んだだけでもしんどかったのに、まだこれから何時間も彼と向き合わなければいけないのかと思うと気が滅入る。それでも、私はカズキさんと目が合った瞬間にパッと笑顔をつくって、ご主人様の姿を見つけた犬のような態度で彼の隣に膝を寄せる。私は資本主義の犬だ。

 一体、いつまでこんなことを続けるのだろう。ずっとずっとずっと何も変わっていない。変えていけない。振り返れば手を替え品を替え、店を替え源氏名を替えて同じことを繰り返しているだけだ。メビウスの輪の中をぐるぐると巡るように、ここからいつまでも抜け出せない。
 このままではいけないということは分かっている。私が思考と行動を停止させているうちにも、世間はめまぐるしいスピードでまわっている。今日の夕方にはゆめいろファクトリーのツイッターアカウントで彼女たちのはじめてのテレビ出演が決定したというニュースを見た。千塚さんに出逢うまでアイドルというものにまったく興味のなかった私は、もちろんそれまでゆめいろファクトリーの存在も知らなかったのだけれど、アイドルファンの間では彼女たちはすでにある程度名の知れたグループだったようだ。どの分野の話であっても、その世界に精通したファンたちの間での知名度と世間一般での認知の度合いには大きな隔たりがあるものの、人気というものは一度その隔たりが破られると今までの速度を無視して一気に加速して高まっていくことがある。私はゆめいろファクトリーがそうなれるか否かの、もっともじれったく忌々しい季節に彼女たちを知ることになってしまったようだった。ゆめいろファクトリーにとって華やかな話題が増え始めていることは、彼女たちのデビューからの動向や世間の反応を過去にさかのぼって細かく調べ込んできた私自身がよく知っている。
 彼女たちのことは相変わらず苦々しく感じているけれど、この一ヶ月弱の間毎日ゆめいろファクトリーを見続けるうちに、このグループや五人それぞれのキャラクターにどことなく思い入れのようなものを覚え始めたのも事実だった。千塚さんお気に入りのまなこが輝いて見えそうになるたび、私は頭を横に振って自分自身の心の動きを否定した。
 可愛いだけのクソガキ集団がニコニコ笑って踊ってりゃあちやほやされて、千塚さんにも好きになってもらえるんだからぼろい商売だよなあと思っていたけれど、彼女たちがステージで流す汗やバックステージで流す涙の量を知り、彼女たちの夢や想いを語る言葉を知っていくと、千塚さんがファンでさえなければもしかしたら私も彼女たちを応援していたかもしれないとさえ思うことがあった。
 世間からは、客の前で可愛くして笑ってりゃいいだけだと思われているキャバ嬢でさえこんなに辛くて疲れるのに、それの昼夜問わずの全国拡大版なんだから、その苦労は私なんかの比にはならないだろう。食べたい盛り、遊びたい盛りで精神的にも多感な年頃の女の子が、必死で節制し、時にはまわりからの悪意にもさらされながら、それでも笑顔を振りまくことがいかほどに大変なことであろうか。

 「唯ちゃん」
 ふいにカズキさんが私を呼ぶ。
「今、ぼーっとしてたよね。何か考え事でもしてる?」
 そう尋ねてきた彼の口元は笑顔のかたちをつくってはいるものの、唇は引きつったように微かに震えている。
「ずっとカズキさんのこと考えてるよー」
 この場を誤魔化したい一心でくだらない冗談を口にしてしまった。しらけるかな、と思ったけれど、カズキさんの唇の震えは止んで、その顔にまんざらでもなさそうな表情が浮かぶ。
「それならいいけど。ほら、唯ちゃん、最近も仕事忙しいでしょ。寝る時間もちゃんと取れてないからそんな風に上の空になっちゃうときがあるんじゃないかなって心配で」
 私はカズキさんに昼間はアパレル関係の会社に勤めていると嘘をついていた。出会った当初、休みの日や空いている時間があるといえば彼はしつこく会いたいと言ってきたので、私は次第に、休みもほとんどない会社で昼間は馬車馬のように働いていると説明するようになっていった。
「心配してくれてありがとう。うん、最近忙しくてここ二週間は休みなしだったよ」
 そうなんだ、と私の言葉を飲み込むカズキさんが本当に納得しているのかは私には分からない。相手の本音についてはあえて、考えないようにしている。
「次の休み、いつ?」
「水曜日に半休とれる」
「俺も会社休もうかな」
「え? 休まなくていいよ」
「なんで?」
「なんでって……悪いじゃん」
 言葉に詰まって、彼のグラスについていた水滴をハンカチで拭った。気まずさをごまかす仕草の途中で、つなぐべき言葉を探す。
「……半休って言っても、午前中だしさ」
「いいよ。それなら俺にとっても都合いい話だし。ランチしようか」
「うーん、でも、役所行く用事とかあるから、時間読めないなあ」
「一緒に行くよ」
「いいよ、悪いじゃん」
「悪いなんて思わないでよ。俺は少しでも唯ちゃんといたいんだよ」
 ありがとう、と発して、またそのあとが続かない。こんな風に言われたら、相手が喜ぶ言葉を返さなければいけないのに。それがどういう台詞であるのかは想像がつくけれど、思い浮かぶ通りに口を動かすことができなかった。代わりに、せめて相手に笑いかけてみせる。
「ねえ、役所行くって言ってたけどさ」
 カズキさんが私の目を見つめる。こちらの胸の内を探るような目つきに胃もたれを覚えて、笑い顔の目を細めるフリで、そっと視線を彼の口元のあたりにずらした。 
「俺と行くの避けてるのって、もしかして本名バレ気にしてる?」
「いや、違うけど」
 こんな質問を投げかけてくる相手の気が知れない。否定する以外こちらには選択肢がなかった。この男に何も自分のことを知られたくない。
「宮下鈴(りん)ちゃん」
 背後から急に強く押されたような衝撃が走った。私を突き飛ばした男は薄笑いを浮かべている。
「言おうかどうか迷ったんだけど、知ってたよ」
「なんで?」
 カズキさんのあまり大きくはない目が見開かれる。早押しクイズの解答者のように、彼は前のめりで話を続けた。
「やっぱりそうだったか! スマホのデバイス名、初期設定から変更してないでしょ。ほら、無線で画像送れる機能あるじゃん。唯ちゃんと一緒にいるときにそれ立ち上げると、いつも同じ名前が出てくるから、そうなんじゃないかと思ってたんだよね」
 クイズに正解すれば私が喜ぶとでも思っていたのなら、その選択は不正解だと教えてやりたい。
「これから、鈴ちゃんて、呼んでもいい?」
「やだ」
「お店じゃまずいか。じゃあ、唯りんって呼ぼうかな。それならあだ名だと思われそうじゃない?」
 自分も不正解の答えを返してしまうところだった。この不愉快なクイズ大会ではもう黙っていることが得策なのかもしれない。カズキさんは私の言葉を待つようにこちらの顔をのぞき込んでいたけれど、反応がないことを悟ると肩を開いてソファにもたれかかる。
「まあ、その話はどうでもいいとしてさ。今日久しぶりに会ったのに、俺たちの関係ってこの前に会ったときから何も変わってなくない?」
「……この間って一週間ちょっと前に会った日のこと?」
 クソみたいな話題が切り替ったと思ったら、またクソみたいな話題がはじまる。ただの客とキャバ嬢であるふたりの関係の一体何についてカズキさんが言及しようとしているのか私には理解しかねたが、それを理解しようという気も起こらない。わざと論旨をずらした質問をぶつけると、彼は一瞬の間を置いて、
「一週間ちょっと前じゃなくて、二週間以上前だよ」
 そう返したきり黙ってしまった。
 私にはカズキさんのその反応がまた理解できない。以前にこの男と会った正確な日にちなんてまったく覚えてはいないけれど、私たちふたり関係は、たとえ二週間連続で毎日会っていたとしたって何も変わることはないというのに。
「ごめんね」
 口先だけの謝罪。眉頭に少し力を入れて媚びた表情を作る。カズキさんは結んだ唇を微かに震わせたまま黙っている。この男は何か気に入らないことがあったり怒っていたりするとき、こうして震えるほどに唇を固く結んで何も喋らなくなる。そしてそのまま無理やり両の口角を上げて、わざと微笑むようなかたちをつくってみせる。怒りをこらえるのが大人の分別だとでも思っているのかもしれないけれど、こんなに分かりやすく腹の内が顔に出るなら、言いたいことを噛み殺して唇をバイブさせたりせずにはっきり言葉にすればいいのに。この表情と対峙し続けているとカズキさんへの苛立ちと、それを我慢している自分を情けなく思う気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、私は一時間三千五百円で丸め込まれている感情を爆発させてしまいそうになる。
「そっかあ、もうそんなに会ってなかったんだねー。どうりでなんか寂しかったわけだー。ねえ、そうそう、聞いてよカズキさん。私最近面白い映画を見たんだよね」
 声の調子を無理やり明るくして話の転換を試みる。数ヶ月前にたまたま見たことがあるだけの好きでもなんでもない映画のストーリーを身振り手振りを交えて精一杯話しても、カズキさんは一向に興味を示さず唇を震わせたまま押し黙っている。私の解説がすべて終わるとカズキさんは、「その話、前に聞いたよ」 と、不機嫌そうに言った。それなら、序盤で主人公がピザと間違われて石釜で焼き殺されてしまうシーンで話を遮ってでもくれればいいものを、どうして結末を話し終わるまで何も言わないのだろう。
「あれ、話したことあったっけ? ごめーん」
「唯りんて、同じ話を何度もすることが結構あるよね」
「そうみたーい。もうほんと、私、ばかだからー。ごめんね、カズキさん」
「そういうことをされると自分が特別だって思えなくなる」
 四十路を過ぎているというのに思春期真っ盛りの中学生のようなことをのたまうこの男は、私から特別な好意を持たれているとでも本気で思っているのだろうか。金を介した擬似恋愛の場所で話題に事欠いたキャバ嬢に、主人公がピザと間違われて焼き殺される映画の話を二度もされた上で、どうして自分が相手にとって特別な人間だなんて勘違いができるのだろう。
「ねえ唯りん、俺たちって付き合う日が来るのかなあ」
 カズキさんは私と会うたびにもう何度も繰り返している台詞をまた口にする。
「私はカズキさんとゆっくり仲良くなっていけると思ってるよ」
「でも、唯りんは相手を100%好きにならなきゃ付き合わないって前に言っていたよね。毎回会ってそのパーセンテージを足し算していってもちょっとずつしか増えていかないじゃない。それまでにどのくらいの時間がかかるのかと思うと……」
「うーん、でも私は、恋って足し算じゃなくて掛け算だと思ってるんだ。たとえば最初の状態が10%の好きだったとして、足し算はそこに10%の好きが加えられても20%にしか増えないでしょ。でも掛け算ならもう100%になっちゃうんだよ。好きになるってそういう風に何かのきっかけで一気に気持ちが盛り上がっていくものなんじゃないかな」
 私の言葉を受けて返す台詞を必死で探している様子のカズキさんは、この恋の数式上、私側の元の数値が0なのだから何を掛けても無意味であるということにはもちろん気付かない。
「まあ、ゆっくり頑張れってことだよね」
 カズキさんは結局勝手に自己完結して自分の言葉に頷いている。
 この人はどうして自分がいつか私と付き合えると思ってしまっているんだろう。私に誤魔化され続けているこの状況から一体なぜ期待を持つことができるのだろう。期待が延期されればされるほど、彼が気持ちを病み私に執着していくのではないかと恐ろしく感じていた。

 毎日起きてスマホをチェックすると、そこにはカズキさんからのメッセージが何通も入っている。朝方に送られてきているのはその日の天気に関する内容だ。今日は雨が降るから傘を忘れないようにだとか、夕方から気温がグッと下がるだとか、天気予報を見れば済む情報をカズキさんは欠かさず私に送りつける。その後には、昼食はそばだったとか、会社の後輩が昨日合コンした保育士とうまくいきそうだとかの、白目を剥きたくなるほどどうでもいい身のまわりの出来事の報告が日に何件も入ってくる。私はカズキさんの日常やこちらへの想いを適当にスクロールし続ける。
 一日返事をしなければ、着信履歴はカズキさんの名前で埋まった。私は架空の仕事で忙しくて電話には出られないから、彼に短いメッセージを送る。心にもない謝罪と心からの営業の言葉。顔だけ見に行くよ、という文面を返しておきながら店に来たカズキさんはいつまでも帰らない。結局、私の顔を店が閉まるラストの時間まで見続けて、それでもまだ飽きずに、次も顔を見に来る。
 借金があるという話を、この間はじめてされた。それが具体的にどのくらいの額なのかは言わなかったけれど、その話をした日でさえ彼は私のグラスを空にしたまま席につかせて置くようなことはしなかった。ばかばかしい見栄の対価がサラリーマンの月給を越えているだろうことは明らかだった。
「俺は唯りんが好きだよ」
 カズキさんからそう言われても、当たり前に恐怖しか感じない。その後に何やらぐだぐだと続く彼の口説き文句は退屈で、私はついつい意識を逃避させてしまう。今目の前にいる男が千塚さんにすり替わってくれたらいいのにというお決まりの想像で、私は頭の中に愛しい人の姿を思い浮かべる。
 千塚さんの薄い唇が縦にそっと開き、一瞬の間を置いてゆっくりとすぼまったそこから「す」という音が発せられたのちに、続けて発音される「き」がこぼれると、横に広がった彼の唇がまるで仔猫のように可愛い形をつくり私に微笑みかけてくれる、そんな感動的な瞬間を。

 私が千塚さんと出会ってからもう一ヶ月が経とうとしている。
 その時間の経過の早さに焦りを覚え、真夜中にまたオカしなテンションになってしまった私は昨日の深夜、千塚さんを食事にお誘いするメッセージを送ってしまった。返信はそれ以降、ない。
 「ちょっと、いきなり攻めすぎですよ」
 あおいちゃんに報告すると、ため息交じりの言葉が返された。
「色々アドバイスしてくれてたのにごめん。だって、もう早く千塚さんに会いたくて我慢できなかったんだもん……ごめん」
「自分の気持ちにすごく正直なところはりんちゃんの長所だと思いますよ。ただ、りんちゃんはまっすぐ過ぎて時々、道なきところまで道にして突っ走っちゃいますからねー」
「ね。私、今完全に荒野走ってる。もう、ここどこ? あおいちゃん私どうしたらいいの」
「この先のルートは完全にありません」
 あおいちゃんはそう一刀両断した後あわてて、
「もう少し待ってから新しい作戦を考えましょう。今はあまり気に病まなくて大丈夫」
 と、私を慰めてくれた。

 カズキさんは今日もラストまで店にいた。送り出しのエレベーターが閉まると、後ろからボーイのひとりがからかうような口調で話しかけてきた。
「カズキさんて、ただのいい人なのか唯さんのストーカーなのか分からないですよね」
「そうだね」
 ただのいい人であるだけなら、十数万払ってこんな店に来る理由はないだろ、とボーイを一蹴したい気持ちを抑えて、一刻も早く送りの車に乗り込むためにロッカールームへと続く階段を上がる。
 スマホを開いてLinxへとアクセスするとやはり千塚さんからのメッセージはなく、彼の日記も更新されてはいなかった。その代わり、ゆめいろファクトリーに関する新たなニュースが話題になっていた。

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