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淡々と流れゆく映像に惹きこまれた。

展覧会「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」を観にいったときの話。

会場入口でもらえるマップに「ミナ ペルホネンのものづくりの営みを自然界に例えて各章の名称としています」とあるように、展示は全部で8つの部屋に分かれていて、それぞれに章題がついている。どれもとても興味深く、1時間ちょっとでは十分に観きれなかったことが少し悔やまれる。

そのうち「風 / life and design」の章では、パリ、山形、沖縄、東京の4つのまちを舞台に、それぞれミナペルホネンの服を愛用している人たちの日常を記録した映像が投影されていた。淡々と流れゆくその映像にものすごく惹きこまれた。この心地よさの正体はなんだろう。

たとえば沖縄の伝統的な家屋や砂浜で着られている。たとえば東京の住宅街のバレエ教室で着られている。ミナペルホネンの服を纏った人々が、それぞれのまちの中で、さまざまな風景の中を移動している。どのシーンを切り取っても、「服が風景と馴染んでいる」ように見える。

当たり前のことかもしれない。
いや、当たり前のことなのだろうか。そう疑いたくなる映像表現だった。

服と風景が心地よい関係にあった。

それは「服が風景に溶け込んでいる」といった一方的かつ単線的なものではなく、相互に作用しているように思えた。服が風景に影響し、風景が服に影響して、渾然一体となっている感じ(最近仕入れた言葉で表現すれば、椎名林檎さんの造語「おいしあう」感じ)。たいへん心地が良かった。

そこで思い出されたのが展覧会のタイトルになっている「つづく」だ。ここでは、服と風景がつづいている。

そうやって他の章をあらためて見てみると、全て「服と〜〜」というつづいている関係性を表現しているように思えて、そうか、これは関係性の展覧会なんだ、と一人で腑に落ちていた。

展示を見終えて地下鉄清澄白河駅に足早に向かう道中で、ふと自分が纏う服に意識が向く。果たしてこのグレーのパーカーは、何かと「つづいて」いるのだろうか。

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