【随筆】わが郷愁の『南海コレクション』 ③
私が、南海病院の院長室に通うようになったわけは、表向きには、父親の仕事上の付き合いが、病院とあったからである。
「病院が新しく綺麗になったから、院長先生がおまえに、遊びにこいと言っている。行って挨拶してきなさい」
と親に言われていた。
病院は、通っていた高校と、自宅とのちょうど中間地点にあった。いつか行こうと思いつつ、気後れしていた。
ある日、どうしても行かなければならない事態ができた。
学校をサボったのだ。
当時の田舎町にあって、逃げる場所などない。商店街はもちろんのこと、町のどこに行っても人の目が光っている。学生鞄を提げた女子高生がウロウロするところなどない。
――そうだ、院長先生のところに行こう。
唐突に思った。
その時なぜそう思ったのかは、今もってわからない。
相手は大のおとな、しかも300床近くある大きな総合病院の院長である。一介の女子高生など相手にしてくれるわけがない。
しかしその時の私は、とにかく切羽詰まっていた。どこかに隠れなければ……という思いしかなかった。
初夏のことで、病院の周囲に繁る木々の木漏れ日が、キラキラ光っていたのを、憶えている。
高校から病院までの道すがら、サボりの理由を考えていた。
先生が急病になっちゃって……今日は試験で早く終わったの……おなかが痛い……
子どもっぽい、あれやこれやの言い訳を思いつく限り、頭の中で並べながら歩いた。
電話して都合を訊くなど、そんな気の利いたことは思いつかなかった。
いきなり、三階の院長室を訪ねた。院長室の手前に、わりと大きめの秘書室があった。たぶん、そこに行って、院長先生に会いたい、と自分の名前を告げたと思う。
院長室には大きなドアがあり、立派な金色の手すりがついていた。
ちなみに、この手すりは現在も病院にある。今は会議室になっている。
秘書の若い女性が来訪を告げると、すぐに中からドアが開いた。白髪頭の小柄な、初老の男性が、ひょこりと顔をのぞかせた。
少し、ドキドキした。言い訳がぐるぐると頭を巡る。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」
その人はそう言い、ニヤリ、と白い歯を見せて、人なつこい満面の笑みを浮かべた。
(何も言わなくてもいい、すべてわかってるよ)
無言で、そう言っているのがわかった。
まるで悪戯っ子のような笑み。
私は私で、(あ、この人は私の味方)と瞬時に感じ取った。
何十畳くらいあっただろうか、ちょっとした講堂ほどもある院長室だった。
ふつうの病院のような白く無機質な部屋ではない。
シャンパンゴールド色に、キラキラと煌めく部屋だった。少なくとも私には、そう見えた。
うわぁー、と、少女らしい声を上げたくなるような素敵な部屋。
女の子が好きそうなものが、何でも揃っていた。
調度品、家具や照明は、ヨーロッパから取り寄せたというアールデコ。
一番奥に大きなマホガニーの机。中ほどにソファとガラステーブルのセット。テーブルの上にはクリスタルの灰皿と煙草。ステレオと作り付けの書棚。マガジンラックに西洋画の全集。
そして壁には、絵、絵、絵……。
正確に言うと、その時壁に掛けられていたのは、細長い「裸婦」一枚だけである。最近知ったところでは、ボンヌフォアという、ヌードばかりを描くフランス人画家の油彩。
近眼のせいかもしれないが、私にはその裸婦が「マリア様」に見えた。
さほど有名ではないらしい画家だが、先生は生涯その絵を大切に飾っていた。途中から、ローランサンの『接吻』が加わったけれど。
エコール・ド・パリのキャンバスは、15点ほどがじかに床の上に置かれる形で、壁に立てかけられていた。
二列に重ねて並べられ、だから一番手前に2枚があった。
「これね、シャガールとビュッフェ。今、どっちにしようか、迷っているんだ」
挨拶も自己紹介も何もない。時候の話題もない。
いつもそうだった。寒い日も暑い日も通ったはずだが、天気の話や、世間話は、一言もしなかった。
ひたすら、〈絵〉と、〈哲学〉と、〈文学〉。
そして、〈人間〉とは、〈男と女〉とは。
その時私、高校二年生、十六歳。
モイーズ・キスリング『ミモザ』。南海コレクションの一番人気。今年のコレクション展のメインイメージ。これは実物を見て欲しい!
「絵は写真で見ては駄目だよ」 コレクターの言葉です。
1945年にニューヨークで描かれています。ユダヤ人のキスリングは第二次大戦中アメリカに逃亡し、そこで描かれたもの。そういう状況でも描き続ける画家は、本当に凄いと思います。(司)
ここ数年で書きためた小説その他を、順次発表していきます。ほぼすべて無料公開の予定ですので、ご支援よろしくお願いいたします。