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ふと消える、あなたの影と、僕の #3

「次はいつ会える?電話でもいいよ」
薄ピンクの小さいゴミ箱に入ったゴミをこれからゴミ捨て場に持っていくゴミ袋に流し込んでいると、ベッドの上から語尾の丸まった甘い声が聞こえてきた。
「再来週なら、会えるよ。平日の夜だと良いかもしれない」
「二週間もヨウスケに会えないのは嫌。いっぱい電話するから」
「出れなかったらごめん」
「つらいの。最近仕事も結構休んじゃってる。雨の日は家から出るのも嫌で、先週は2日休んじゃった。休んでもなんか体だるいし。ヨウスケと一緒にいないとなんだか無理」
カナコはいつもどおり機嫌が悪い時の早口で、しかも掛け布団の近くでボソボソとそう言うものだから、言葉は彼女のぬくもりの残るふわりとした羽毛たちの餌になって消えていった。いつも彼女に寄り添っているあの布団は、彼女が思い浮かべる灰色の悲観的未来像を描く単語たちを目一杯吸い込んでいて、買ったときよりもどんよりとした色に沈んでいる気がした。買いたての頃は空色に近いもっと明るい色をしていた気がするのだが。ゴミ袋を縛ってから、洗面所で手と顔を洗っていると、山積みになった化粧品の瓶たちと、旧型の洗濯機の中にはよれたブラジャーやキャミソール、アイドルやバンドのティーシャツやいくつかの靴下が無造作に投げ込まれているのが見えた。一番上に僕がこの前脱いでいった無地のティーシャツが緑のボディをこちらに向けて小さく笑っていた。さらに上から布団を入れて、ついでに洗濯する余裕はなさそうだし、普通の洗濯物と一緒に布団を洗うのもなんだか気が引けた。僕はベッドの脇に戻り、携帯端末の画面と向き合い何かを書いては消してを繰り返すカナコと、今はカナコの腰から下をそっと覆っているどんよりとした布団を見て思わず小さく息を吐いた。彼女が窓に背中を向けるように僕の方に転がると、彼女を包む少し大きめのティーシャツがめくれて彼女の腰回りが顕わになった。白い肌に包まれ、優しく撫でるだけで痛みを与えてしまうんじゃないかと思わせる細い骨組みは、野に芽生えたばかりの季節外れのすすきを思わせた。風が吹けば揺らめいて、ほんの少しの負荷でも、少しの嘘でも、少しの重い言葉でも弱々しい抵抗も叶わずに折れて曲がって、そのまま永遠に時間を止めてしまいそうな危うさを感じた。カーテンの隙間から差し込むゆるい光が彼女の後ろから差し込んで、彼女の影を明るく浮かび上がらせた。たとえあと少しでもカーテンが開いたり、彼女が動いてしまえば、今の影の色合いは永遠に消えてしまうように思えた。崖の上に落ちた一枚の花びらに指す月の光、月の光の落とす影、消滅と発生の境界線、境界線のちょうど真上に、カナコの白い身体が横たわっているように思えた。肉の付き方とか乳房や下着の色や質感とかは抜きにして、今この瞬間、この瞬間だけのカナコの危うさはとても綺麗で、トクントクンと早回しになる僕の歯車の音が聞こえて、僕は無性に。彼女の腰のあたりに触れて、キスをしてみたくなった。たとえ触れることで、今という時間が折れ曲がって永遠に消えてしまうとしても。
僕が膝をついて触れようとすると、彼女は携帯端末をポンと放り投げて僕の方を見て、窓の方に少し身体を引いた。光の差し方が変わって、美しい影は透明な世界にひらりと落ちていった。実体を残したまま。
「ヨウスケ?」
「あ、うん」
「どうしたの?急に?」
「うん。なんでもない。それより、布団、そろそろ洗濯しようよ」
「ううん。気が向いたら。今日も天気悪いかもだし」
「今日は晴れるみたいだよ。今年一番に暑いってニュースに書いてあった」
「暑いの嫌だな。クーラーつけると寒すぎだし」
「窓開ければ風が入ってきて涼しいよ。きっと」 
「布団、汚いと思うなら汚いって。はっきり言ってよ」
急にカナコが起き上がって僕を強い目つきで見た。へそを曲げた時の少し低い声、強い口調、いつもどおりの過剰な反応なのだが、僕は僕でいつも驚いて、言葉が胸の辺りに刺さるのを感じた。感情の起伏の下り坂。ほうっておくと自然の摂理に任せてそのまま奈落の底に沈んでしまう。そうなってしまうと付き合うのが大変だ。
「ごめん。そういう意味じゃない」
「本当?」
「うん。天気いいって見たから、洗って干したら気持ちいいんじゃないかなと思った」
「じゃあ、そうしようかな。でも結構溜めちゃってるから。散らかってる洗濯物片付けるのもだるいし。どうしようかな」
声のトーンが少し戻って、カナコの感情の球体が平坦な道をコロコロと転がり始めた。小石一つ落ちていない、まっさらな平面だ。まっ平らなこの平面がいつまでも続いてくれれば。少しでも上向きだったり、少しでも下向きだと、彼女の猫のヒゲのように繊細な心のきっさきはすぐに反応して大きな起伏を作り出してしまうから。ピークの上にそっと載せられた小石のようにグラグラと、外から見ているだけでくすぐったくなるくらい不安定だけれど。ひとまず僕が帰るまでの間、平らになってくれることが大事だ。その後高まったり大きく沈み込んだりするのは心配だったが、その時は直接は僕がかまう必要はないから。
「少しだけなら手伝ってもいいよ。でも、俺もそろそろ行かないといけないから」
「うん。でも、いい。ありがと。だるいけど、たぶん自分でできる」
カラリとそういったカナコは立ち上がって、冷蔵庫から豆乳のパックを取り出してチューチューと吸い始めた。ベッド脇のローテーブルの上に、飲み終わった豆乳のパックがストローと一緒にいくつか放置されていた。一度ハマりだすと病的なまでにしばらく同じものを飲み続けるのも彼女の性格だった。前はオレンジジュース。その前は安い酒だった。安い酒を中毒者みたいに飲まれて部屋中が悪いアルコールの匂いで蒸すのはとても見ていられなかったから、その時ばかりは僕は久しぶりに人を叱るということをした。叱られたカナコは僕の胸に顔をギュッと押し付けて、グレーのシャツが暗い涙で真っ黒になるくらい泣いた。泣いて、泣いて、何か大事な人を亡くしたんじゃないかと思うくらい泣いた。僕は初めは彼女の涙を手で拭いながら頭をなでていたけれど、そのうち右手も左手もすっかり乾いてしまって、一体なんのために彼女の肩を抱いているのか、どうして僕の胸がぐしょぐしょに濡れているのかわからなくなっていた。水浴びをした鴨のように安らかに潤んだ瞳を僕に向けながら、彼女は大勢を変えて僕にのしかかるようになって、小さく笑った。その時も、向こう側から差す光に陰る彼女のシルエットと、彼女の髪の細い線がとても美しかったのを覚えている。カナコの身体の線は少し骨ばっていて、肉体からは豊かさよりもむしろ風が吹くたびにうつろうような儚さが香っていた。
僕はストローで豆乳をチュウチュウと吸うカナコの線を見ながら、アリサのことを考えていた。アリサのプロフィール文を思い返していた。
『秋から上京してきました。メディア系の仕事しています。東京で友達が欲しいので登録してみました。ご飯の趣味が合う人とたくさんお話したいです。お酒はあんまり飲めないけど、話の合う人となら。休日はカフェ巡りしてます。写真は沖縄で昔撮ったやつで。実物はもっと太めです』
ありふれているけれど、たしかにアリサを表す短い言葉たち。白い砂浜と青すぎる海をバックにうつむき加減で目を細めながら映る姿は確かに今のアリサよりもいくらか細かった。儚げでも陰りもないけれど丸っこくて温かいアリサの肌を思い出そうとしていた。目の前のカナコと、どこかに行ってしまったアリサを無意識で比較していた。真っ暗闇の中を手探りをするように、僕はアリサの残像の、そのまた影に触れようと虚空を探っていた。
「じゃあ。おれ、そろそろ行くよ」
「そう。いいけど、連絡してね。待ってるから。最近、ヨウスケ。怪しい。私以外の誰かのこと、考えてるでしょ」
カナコが立ち上がって僕の首元に顔を寄せて、クンクンと匂いを嗅いだ。石鹸や洗剤の匂いの変化、飲んでいる牛乳、カフェのコーヒーまで、カナコは変化に敏感だ。前に飲んでいるミネラルウォーターを硬水に変えたときに、何気ないタイミングでそれを指摘されたときは、カナコのオカルトめいた霊感を信じそうになったし、カナコが僕の知り得ないところで、僕の友人に探りを入れたり、最悪のパターンでは僕の家にこっそりと上がりこむか何かをして、僕の行動を把握するようなことをしているのではないかと疑ったこともあったけれど、やっぱりそんなことはなくて、ただ単にカナコはカナコの直観に従って生きているだけのようだし、何かを信じたくてたまらない性格の裏返しとして関わる誰かのことをいろいろ試してしまうのだと思った。疑いの目や疑いの手は応酬を生んでしまうから、僕はカナコが自然と振舞っているのだと信じることにした。誰だって疑念のカミソリを振り回しって現実を切り裂くようなことはしたくないのだから。
カナコは僕の首元に寄せていた顔を今度は胸に押し付けた。背中側にそっと回された細く弱い手は冷たかった。僕は右手でそっと彼女の髪を撫でた。光を吸い込んでも吸い込んでもより黒くより黒く輝いてしまう髪が人差し指と中指の間で揺れた。癖のない真っ直ぐな髪は雨に濡れて垂れる柳だった。傍に流れる川と、その下を抜ける冷たい風を思わせた。質量を思わせない肌触りで指の間を髪が抜けて、僕はその手でもう一度彼女の頭を撫でた。彼女は子猫のように僕を見上げて、潤んで、どこか諦めたような目を僕に向けて、下唇を噛むようにした。
「じゃあ、いくから」
僕はカナコをそっと引き剥がしてベッドに立てかけていたネイビーのトートバッグを手にとって、彼女の目を見ながら小さく笑ってみせた。彼女はちょこんとベッドに腰を下ろして、不満そうに俯いた後、もう一度顔をあげて僕の方を見た。僕はその目を少し見てから「じゃあね」と言って背を向けた。出際に洗濯機を覗き込んで、一番上にあった僕のティーシャツをそっとトートバッグに入れた。
外はなんだかどんよりと曇っていた。少し遠くに黒い黒い雲がもやもやふわふわと、こそばゆそうに浮いているのが見えた。首元にしっとりと冷気が落ちてくるのを感じながら駅までを歩いていると、途中からポツポツと大粒の雨に振られてしまって、僕は雨宿りをするはめになった。同じ店のシャッター前の軒先きで一緒になった青みがかった髪の女性がレナに見えてドキッとした。雨足が強くなって、他のすべての音とあたりの景色を丸々飲み込んでしまう野を見ていると、カナコから寂しいとメッセージが届いた。僕はそれに特に反応することもなく、携帯端末をポケットに押し込んで雨に隠れている道の遠くをじっと見ていた。

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