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分からないことを、分かるために。

分かっていきたいなあ、と思います。

人付き合いのはなしです。
分かってこそ分かる「分からない」に直面していかないと、一緒にいても何も変わらないよねえ。

友人でも、恋人でも、仕事の人でも、
こういう立ち位置の人!という役割りだけはしっかり認識している事はあっても「個人としてどんな人間か」を理解してない場合多いと思う。

家族だって、生まれてからずっと一緒にいるのに分からないことは恐らく山ほどあるわけだし。

そして、そうやって人を知っていく時には土台として「なるべく好きになりたい」と思っている。
難しくても、今はそう思っている。

例えば相手に一つ嫌な部分が見えちゃっても、その人を好きになることを出来る限りは諦めたくないなということ。

これは嫌な部分が自分に実害がないという
そういった前提での話なんですけど。

例えば
相手にaという悪い面が見つかった事で、
bやcにある良い部分まで否定して無かったことにしてしまうのは、何となく勿体ないなあと感じるのです。

自分の過去を振り返った時に
「あ、やってしまった」とか
「あの時の自分の、ああいう部分最悪だったなあ」とか。

反省したり恥ずかしくなる時って、多少なりとあるじゃないですか。

上記のaが、時間の経過によって
どこかでその人の「恥ずかしかった過去」になる可能性だってある訳なので、他に良さがあるなら全てを諦める前に、ちょっとだけ待っても良い気がする。

他人の嫌な部分をピックアップして否定ばかりしていくと、たぶん自分自身の肩身も次第に狭まってしまうし。

会えた人には折角会えたのだから間に一つや二つくらい楽しいことが共有出来たらなあ、という気持ちで基本的には接しています。

誰かと向き合う為には何となくちょっとだけ、その人の好きな部分を期待していたいなあと思う。

もしも結果が期待外れだって、希望をもって行動した答えならそれで別にいいと思う。

そして、大切に思う人達が対象なら今日好きで、明日ちょっと嫌いになったとしても、また明後日好きになれるような気持ちで居れたらいいなと思う。

人を好きになるということは好きなことが沢山増えていくもので、特別な幸せや楽しさも大体は他人が、きっかけを連れてきてくれるものだ。

他人にも、自分にも、ちょっとの希望を持ちながら生きていけたらいいなあ。

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