事件と私の距離を隔てるものは何か
相模原市津久井やまゆり園 障害者殺傷事件について
この凄惨で残虐な事件から3年が経過したことを伝える報道が、朝から続いている。
「その割に」、という言葉を使うのが適切なのかどうかはわからないが、SNSなんかをいつも通り眺めていても、この事件に対する憤りを語る人が多いようには思えない。
SNSのタイムラインには京都アニメーションの事件、吉本興業のどうでも良いお家騒動、高校野球の話題、私やフォロワーさんが共通して関心を持つエンターテインメントの情報が並ぶ。「やまゆり園」という言葉は、虫メガネの中に関連ワードを入れないと見つからない。
個人的な肌感覚なので、統計を取ったわけでもなんでもないけど、風化したというよりは元々遠かったという方が表現としては正しい気がする。
悲しい出来事、腹立たしい出来事があったときに、全ての人が同じ反応をするとは限らない。ある出来事が起きたときに、その出来事と心の距離が人によって異なる。その距離が、悲しみや憤りの規模を決定する。
地震のようなもの、といえば良いだろうか。
相模原市の障害者殺傷事件は、人々の心との距離が近い出来事とは言えないように考える。
京都アニメーションで起きた放火殺人事件が、どうしても時期の近さから引き合いに出される。
経過した年月やそれによる風化の影響、被害者の氏名を公表しなかったという特殊な性質を差し引いても、相模原市の事件は(京都アニメーションの事件と相対的に見た場合に、ではあるが)たくさんの人々にとって遠い出来事なのではないか、というのが今日一日私が受けた印象である。
もちろん、京都アニメーションの事件に対する反応が「強すぎる」なんて思わない。あれほど猟奇的な殺人事件に人々が深い悲しみを抱くことは当然のことである。日々、触れてきた作品の多さ、その作品の完成度の高さ、スタッフへの敬意、あふれるような思いがあってしかるべき遺憾な事件だ。
けれど、相模原市の障害者殺人事件だって、遠くなんかない。
あなたは、もし誰かに突然「生産性がないから死んで当然だ」と言われたらどうしようかと考えたことはあるだろうか。
あなたには価値がない。
あなたは生きていなくて良い。
私は、正直なところ、何度もある。
なんだったら、そんな恐ろしいことを絶対考えていないと信じてやまないが、誰か他人に対して、「生産性がないから死んで当然だ」と考えてやいないか、無意識の中にそんなおぞましい感情が芽生えていないか、怖くてたまらない。
私が、何の穢れた邪念も持たず「誰だって生きているだけで良い」と考えている、と思い込むことこそ、自己中心的な驕りではないだろうか
私は、偶然にも、「人はただ生きているだけでもいいのか」ということを悩む機会に恵まれた人生だった。それだけは、もしかしたらうまくその感情と向き合うことができたなら幸福なことなのかもしれない。
ここから先は、「きょうだい児」という言葉を元々知っている方には少し辛辣なことを書いてあるかもしれない。
不特定多数の人が見るかもしれないインターネットの文章に個人的なことを書いても良いかということを本人に確認できないので、私の判断で言える範囲だけ書く。
とても近い身内に、障害を持つ者がいる。今はもう成人して、働いている。
私は、「きょうだい」というらしい。障害を持つ者が兄弟姉妹にいる人のことを、ひらがなで表記するらしい。
それ以上その本人の情報には言及しないが、私はその人がいなければ、差別の脅威、命の尊さ、共に生きていくことや理解しあうことの難しさについて、想像してみることもなかった可能性が高い。
子育てをしていくうちに性格が柔和になっていく父親、どんなときも子どもを最優先に生きていこうと懸命に笑顔で努力する母親を見ていても、その人が周りに与えた好ましい影響がとても大きいことがうかがえる。
私は、時間や(大したものはないけど)技術を労働によって金銭に変換することができる。おそらく、その障害を持つ身内と比較しても、私の方が多くの金銭を享受できる。
けれど、私は父親や母親に対して、生き方を変えたとか、考え方に影響を及ぼしたとか、見えない結果を残すことができたかといえば、自信がない。
いつもその人は笑顔で、公立の小学校にいるときもたくさんのクラスメイトに囲まれて可愛がってもらっていた。ひねくれていて友達もわずかしか居ない私なんかより、はるかに人から愛される子どもだった。
その身内と比較されてしまうと、私の方が「生産性がないですね」と言われてしまうんだろうな、とさえ思う。
両親に大切に育てられたその人は、両親と過ごす時間も長く、その時間の密度も高い。
一方、一人で好き勝手に生き、実家を出て生活する私は、その人に適うような、長く濃い両親との時間を持たない。
母親は、その人の好きな音楽は知っているけれど私が何のライブに行っているのかは知らない。父親は、その人の嫌いな食べ物を知っているが私の嫌いな食べ物はおそらく忘れている。旅行も、冠婚葬祭も、いつもその人にとって快い環境、条件を整えてきた。
簡単にいえば、あくまで「我が家の場合は」だけど、どんなに両親が綺麗ごとを言ってくれたとしても、その障害を持つ身内の方がよっぽど両親にとって関わりの深い家族なのだ。
カルネアデスの板の話じゃないけど、大海原に私とその人が同時に溺れていたとして、両親は私ではなくその人を助けるような予感がする。
そういう考え方をすれば、私にその人に勝る「生産性はない」。
そんな考えを携えて生きてきた私にとって、普通の人間にだって生産性なんか保障できるもんじゃないよという悲観的な見方が染みついている。
身内が持つ障害は200人に1人とかの割合で発生すると言われているのだから、身内ではなく私が障害を持って生まれていたかもしれない。
私は京都アニメーションの亡くなられた方のように、世界から賞讃されるような功績を持っていない。
明日、いきなり高齢者の運転する自動車に轢かれて身体に障害が残るかもしれないし、突然誰かに後ろから刺されて意識を失うかもしれない。よほどそちらの方が、私が突如「生産性の高い人間」になるよりもあり得る話なんじゃないかと思う。
そんな悲劇的な話じゃなくても、将来AIがとんでもない発展を遂げて、文系の中の中くらいの大学を出ているだけの私なんか、なんの「生産性もない」人間だと宣告される可能性だってあるかもしれない。
そんなネガティブなことをうだうだ脳内に漂わせていると、私が「生産性のある人間」だなんて胸を張ることは、絶対にできない。
どうして皆にとって、相模原市の障害者殺人事件が遠いのか。
「生産性」ってなんだろう、自分に「生産性」なんてあるのか、「生産性」がないと生きちゃいけないのか。そんな類の葛藤や悩みが、どうして皆にとっては馴染みのないものなのか。
その方々の身内に、障害者のように「生産性がない」と(言われるべきではない、許されない)言葉を向けられる人がいないだけなのか。「もし自分が障害を背負ったり、社会的弱者になったら」ということを想像する場面が少ないだけなのか。
その理由は、私には特定しかねる。
ただ、たくさんの人に届いてほしい。
完璧な人なんかいない。
私にも、身内にも、優れたところがあって、優れていないところもある。
「生産性」という言葉に置き換えられる能力や技術の多寡、その水準で、人は決めつけられるような存在じゃない。
だって、私はその身内がいなくなったら、悲しい。
物心ついたときから知っている家族が突然いなくなる。そんな悲しいことを少しでも脳裏によぎらせるだけで、張り裂けそうな痛みを感じる。
きっと、その人も、私が突然いなくなったらと悲しいと思ってくれるはずだと信じている。
家族を、友人を、恋人を、職場や社会でかかわりを持つ人を、理不尽に奪われたら、それは誰にだって悲しい。許せない。
それだけで、充分すぎる。
この事件が、誰にとっても遠くない問題であってほしい。
結論もないのに、noteに登録して言葉を書き殴った私の「生産性」のなさを、どうか誰も咎めないでほしい。
誰かの生きる価値が、誰かによって歪められませんように。
相模原市障害者殺人事件、および京都アニメーション放火殺人事件によって命を奪われたすべての方のご冥福をお祈りいたします。
2019年7月26日 月野にこ
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