cs no.001 くさび

 けさ目を覚ますと、わたしは夢を覚えていた。
 半分開いた口から、ああ、と静かな驚きの声が漏れた。
 前回、こうして色つきの夢を抱えて淵から浮き上がった朝は、果たしていつだっただろう。まだ半分は眠っている頭での暗算を諦め、わたしは指を折って数える。
 いち、に、さん、し……。
 そうか、大学を出た春以来、ちょうど八年ぶりなのだ。
 春のやわらかい光が窓から差し込み、寝乱れた髪を薄く透かして、わたしの頬に触れる。徐々に身体が分別を取り戻し、肌の内側がわたしになる。一方、わたしから押し出された感触が寝巻きになり、枕になり、薄い毛布になり、ベッドになる。身体を起こすと上下が生まれ時間が生まれ、今日という一日を成り立たせる予定の数々が、小学生のように整列する。
 それでもまだ、夢はまったく薄まりも綻びもせず、額の十数センチ上空に座り込んでいる。
 その日、わたしは夢を覚えたまま起床したのだった。
 覚えているはずのない夢を。

        *

 十五時半に仕事が終わり、夕勤のスズキさんに交代した。
「ユリコちゃん、今日は血色がいいね」
 そうですか? いつもと変わらないと思いますけど。
 裏で着替えてスーパーを出ると、言われてみればたしかに、今日は血色がいい。わたしではなく、街の色がいいのだ。春、空気のなかで建物たちがキラキラと光っている。口を大きくあけて歌いたくなる。とはいえ、散歩しながら歌うような曲なんて、思いつかないのだけれど。
 薬局に向かう途中、陸橋の下を通る。高架下の暗がりは青々として、まぶたの裏と同じ色だ。向かい側の歩道を、わたしと同じような背格好の女が反対方向に歩いていく。わたしが見ていると、彼女も少しこちらを見て、口をふわりとさせた。笑ったのだと思った。
「おくすり、先月より少し減ってますからね」
 薬剤師のニトリさんが、馴染みの淡々とした様子で言った。
「一回一錠にして、これまで通り毎日飲んでください」
 はい。
「なにか心配なこと、ありませんか」
 いいえ、大丈夫です。ありがとうございます。
 薬局を出ると、少し夕方の気配がする。春とは、夕方を再発見すること。多くの人にとって、家路につくにはまだ少し早い時間、わたしは今年も夕方に再会し、少し笑ってしまう。そして今朝の夢のことを思い出す。
 少し、額のあたりに違和感がある。肌は春の流動に馴染んで緩んでいるのに、頭の上にはひんやりとした石が載っているかのようだ。いや、載っているのではなく、やんわりと食い込んでいるのだ。くさび、という語をわたしは思い出す。続いて、形而上学、という語も思い出す。形而上学の浮かぶ額の上空から、くさびがわたしに突き刺さっている。
 歩いているうちにむしょうにもどかしい気持ちになり、わたしはシンジと待ち合わせた駅を目指しながら、少し途方に暮れた犬になる。大口を開けてわんわんと叫びたいような、切なさが全身に満ちる。

 駅の改札を抜けてくるシンジは、わたしにまだ気づかない。広告の踊る柱に隠れる意地悪さを胸のうちに転がしながら、周囲を見回す彼を数十秒眺めてみる。
 彼の近くにいながら、なにを話そうか、うまく笑えるだろうかなど、そんなことを考えなくてすむこの距離が、本当はもっとも愛おしい。誰かが代わりに彼のもとに駆け寄ってくれるなら、わたしはこの距離を維持できるだろうに。
 そんなことを考えかけて、その不吉さにぞっとする。わたしは振り払うように柱の陰を出て、小走りで彼と接触する。そうしながら頭の片隅で、わたしと瓜二つの快活な妹を想像する。引っ込み思案な姉であるわたしは、いまもどこかの柱の陰から、歩いていく彼と架空の妹を眺めている。妹は今日どこかで見た、ふわりとした笑みを浮かべている。
「もうアプト社には知らせたの?」
 今朝の夢を覚えていると話すと、シンジは天井を見つめたまま言った。
「なにかトラブルがあったんだよ。向こうも捕捉してるだろうけど、早く報告したほうがいいよ」
 うん、そうだよね。明日の朝、問い合わせてみる。
 わたしは隣に寝る彼の頬を見つめながら、配点の大きな問題を解きそこねたような気分になる。それを声色から敏感に知った彼は、全身をこちらに向け、一際やさしい表情をする。
「どんな夢だったの」
 きかれて初めて、わたしは夢の内容を話したかったのだと気づく。しかし、それは一体、どんな夢だったのだろう。鮮明に覚えているのに、うまく言葉にできない。冷たいくさびの感覚は、いまはわたしの形而上学と一緒に、しっとりと枕に横たわっている。その先にシンジの顔がある。
 説明が難しいよ。
「そうなんだ。いや、無理に言わなくていいよ。貴重な夢なんだから、じっくり味わって」
 シンジはわたしの側頭を撫でてくれる。
「おれも……もう十年は夢を見てないよ。いや、毎日見てはいるんだな。でも覚えてたことは一度もない」
 わたしも、これが初めてだよ。アプト社と契約してからは。
「うん」
 彼の指がわたしの後頭部の装置に触れ、かちゃりと小さな音がした。眼鏡を頭の後ろに掛けるようにつけるアプト社製の装置。それをへんてこだと笑った日が懐かしい。
 シンジはわたしを撫でるのをやめ、少し困ったような顔をする。
「おれ、もっと頑張るから。ふたりとも、自由に自分の夢を見られるようになるまで。だから、もう少し待っててほしい」
 そんなの、いいよ。一緒にいてくれるなら十分。
「いや、おれは夢を見たいよ。誰かのためじゃなくて、ユリコのために夢を見たい。DCの話、前にしたよね」
 一緒の夢を見られる機械、だっけ。
「そう。夢をつないで、相互作用させるんだ。もう何年かすれば、もっと実用的になって、価格も下がってくると思う。だから、それまでにはきっと、夢を売らなくても普通に暮らせるように……」
 シンジはもぞもぞとわたしに身体をつけ、静かに抱擁した。
「夢のなかでもユリコと一緒にいたいんだ」
 彼に抱かれながら、わたしは今朝の夢のことをそっと思い返す。あの夢のなかで、わたしはわたしだったのだろうか。シンジがいつか夢のなかで出会うわたしが、本当はわたしでなかったら、どうしよう。
 そう考えていると、いま彼の腕のなかにいるのも本当は見知らぬ妹で、わたしはホテルの天井の火災報知器かなにかに化け、物言わずふたりを恨めしく見ているのではないかと、想像してしまう。
 自虐的な妄想をもみ消すように、彼の胸に頬を擦りつける。くさびのひやりとした感触が、わたしとシンジの間のどこかに、形而上学的に忘れがたくある。
 そうしているうちに次第に眠くなる。眠りに落ちかけながら、まだ鮮明に残っている夢の記憶を、ようやくひもとける気がしてくる。
 ねえ。
「なに?」
 夢の話……。
「うん、話して」
 結局、どこまで話せたのだろうか。翌朝目を覚ましたときには、眠りに落ちる直前のことはまったく覚えていなかった。密かに淡く期待していたが、昨夜の夢はいつもと同じく、その存在の片鱗すら残していなかった。

        *

 十五時半に仕事を終え、家に帰って横になっていると、玄関のチャイムが鳴った。
「昨日ご連絡差し上げた、アプト社の者です」
 ドアスコープを覗くと、スーツを着て髪をまとめた女の人が立っていた。
 わたしは十秒ほど逡巡して、結局ドアを開ける。
「このたびは申し訳ありませんでした」
 頭を下げた彼女のつむじは、真面目そうできれいだった。
 いえ、メールで事情は分かりましたし、わざわざ来ていただかなくても大丈夫ですよ。
「しかし、お借りした脳に使用の痕跡を残してしまうなど、本来あってはならないことです」
 わたしは彼女に渡された菓子折りをしげしげと眺める。
 そんなに大変なことなんですか。夢を覚えているというのは。
「いえ、健康上のご心配はまったく必要ありません。我が社が脳を使用させていただくのはレム睡眠時に限りますし、その用途も脳に悪影響を及ぼすものではありません。ただ、使用中の情報が記憶として残る——つまり夢を覚えているというのは、あまり類例のないことです。なにより、ご不快ではないかと思いまして」
 そんなことはないですよ。夢の内容も、はっきりしてますが、意味はなんだかよく分からないですし。
「そうですか……。とはいえ、大変ご迷惑をおかけしました。もしお気づきのことがあれば、ご連絡ください」
 彼女はもう一度頭を下げてから、玄関先を去っていった。
 わたしは彼女の足音を聞きながら、台所に立った。蛇口から流れる水に指を差し入れると、水流はそこでふたまたに分かれる。くさびとは、ちょうどこのようなものだ。細く差し込まれたものの両側に、同質の、しかし互いに反対向きの流れができる。
 小さな窓から入る光は青みがかった灰色で、それに包まれたわたしとその人差し指はどうにもひんやりとして、時間が止まってしまったかのようだった。玄関ドアの外、アプト社の女性が去っていく靴音が、いつまでも聞こえている気がする。
 水を一杯飲み、また少し横になる。もらった生菓子を冷蔵庫に入れ忘れたことに気づくが、なかなか起き上がれない。
 一日中働ける健康な人たちと違い、わたしにはアプト社との契約が必要不可欠だ。眠る時間が長ければレム睡眠の時間も自然と長くなる。そのあいだ脳をアプト社に貸し出せば、夢の代わりに報酬が手に入る。そのお金のおかげで、短いアルバイトだけでもなんとか生活できる。わたしだけではない。シンジのように健康な働き盛りであっても、裕福な人や優秀な人以外はたいてい、アプト社などの会社と契約しているはずだ。身体を動かして働くよりも、眠っているときの方が時給が高い。
 夢なんて、生きるためにはそれほど重要ではない。売ってしまって困ることもない。夢のなかでも一緒にいたいだなんて、シンジはずいぶんロマンティストだ。でもそんな彼のことが、とても愛おしい。彼と出会い、過ごしてきた五年あまりの歳月を思うと、なぜかあわれで泣きそうになる。
 日が沈んでいくのを窓の外に感じながら、わたしは眠りに落ちる。
 どこかで誰かが、わたしの脳を使って仕事を進める。
 妹がわたしの傍らから起き上がり、うきうきと着飾って、シンジに会いに行く。

        *

 高架下で、シンジが妹とキスしていた。
 少し風の強い夜、妹の羽織った上着と髪があおられて、羽のようにはためいていた。陸橋の下の闇には粘り気があり、ほかには誰も寄せつけないまま、嫉妬深い無数の視線を含み持っているようだった。わたしはその闇に溶け込んで、前頭に突き刺さるくさびの鈍痛を抱えながら、なにかをぎゅっと抱きしめていた。
 そして妹はシンジに、わたしの方を見ていて、と言ったのだった。
 違う、それは妹ではない。わたしに妹はいない。それでは、彼がもう長いこと、肩を優しく抱いているのは、だれなのだろう。わたしは当惑しながら、いつまでもそれを眺めている。そもそもそれは、いつのことだったのだろう。
「もう、やめてくれ」
 ひとしきりの口論のあと、シンジがぽつりと言った。
 やめてくれって、なに。やめてほしかったのは、わたしのほうだよ。
「きみがなにを言っているのか、分からない」
 彼は疲れた様子でベッドに座る。わたしは立っている。いつからか、立っている。なぜ立っているの。それは、シンジの隣には、彼女が座っているから。彼女って、だれ。彼女は、わたしの妹。
「おれは浮気なんてしてない。疑わしいなら、どんなに大変でも証明する。信用してほしい」
 シンジは座ったままわたしを腕に包む。わたしはシンジの隣に座っている。彼の手は優しく、いつかの夜の光景がいくつもよみがえる。そのなかに、無数の妹がいる。
 妹は。妹とは、いつ会ったの。
「いもうと?」
 妹はわたしに瓜二つで、でも性格はわたしよりずっと明るくて、幸せな子。きっとシンジも好きになる。いや、もうなったのだ。キスしていたのだから。
「ユリコに、妹がいたのか」
 分からない。妹は、いつからいたのだろう。幼い頃、妹と遊んだだろうか。でもそんな覚えはない。
 そうだ、妹を初めて見たのは、シンジが手をつないでくれた日。
 手をつないだ日。
「初めて手をつないだのは、五年前のホワイトデーだよ」
 そう、その日、急に触れた手の熱に驚きながら、妹は幸福だった。これほど素直に幸福になれることに、彼女は驚いたのだ。
「そのとき、ユリコが好きだって言ったんだ」
 わたしも好きだった。そんなに好きだと気づいたのは、シンジが言ってくれたからだった。
 なのにどうして、あなたは妹を選んだの。
「おれが好きなのはユリコだ。妹なんて知らないし——」
 そうシンジは言う。相変わらずの、まっすぐなロマンティストの目。
「——きみのことしか、見てない」
 いつか、あの高架下でも、彼はわたしにそう言ったのだ。
 その通りだ。
 わたしと瓜二つの、快活で魅力的な妹なんて、知らない。
 シンジと手をつないだのも、彼に肩を抱かれたのも、深夜の高架下の暗がりに包まれて彼とキスしたのも、わたしなのだから。
「ユリコ、最近、少しおかしいよ。上の空で、おれには分からないことを言う」
 わたし、変なのかな。いつから変なのかな。
「たぶん、夢のことを話してくれた日から」
 夢って、なに。
「覚えてないのか? アプト社と契約してるのに、朝起きても夢を覚えてたって」
 記憶ではないどこかの底から、いまだ鮮明で、しかし意味の分からない無数の欠片が浮かび上がってくる。額の上に、ひやりとした感覚が起こる。わたしはたしかに夢を見たのだった。どうして忘れていたのだろう。
 わたしはあの夜シンジに、夢を説明した。ひもとけたのは、そのときだけだったんだ。
「うん」
 わたしは、なんて説明したの。
「実は、内容はほとんど覚えてないんだ。おれもユリコも、眠りかけてて。それに、すごく怖かったから、忘れたかった」
 怖かったの。
「ああ、怖かった。きみがどこかへ行ってしまいそうで」
 そうだった。
 わたしも怖かった。宇宙空間でなにかに押され、熱のあるものすべてから離れ、暗い時間軸上を等速で滑っていくように。
 わたしを押したのは、妹だった。そして妹はわたしから反作用力を受けて、わたしの時間を逆走した。
 わたしは夢のくさびの向こうに妹を見た。そして、妹は夢を乗り越えて、わたしになったのだった。
 涙が湧き出てきた。
 怖かったよ。
「ああ、怖かった。でも、もう大丈夫だよ」
 シンジは強くわたしを抱きしめてくれる。涙が彼のシャツに熱く染みていく。
「薬、減らしてる途中なんだよね。そういう時期は不安定になりやすいんだって聞いた。そんなときに夢を覚えて起きたりして、きっと混乱したんだよ」
 シンジは優しい。わたしはシンジが好きだ。夢でも会いたいなんて言ってくれる、こんな時代に少しロマンティックすぎる、わたしの恋人。
 涙がさらに溢れ、濡れた領域は彼のシャツの上で、とめどなく広がっていく。その熱い輪郭を感じながら、わたしは幸福な夢の浮遊感を味わっている。しかしどんな熱のなかにあっても、わたしの形而上学に突き刺さった冷たいくさびを、夢を、忘れることができない。
「もう泣かないで。大丈夫だから」
 彼の声が広い胸に響く。
 シンジ、どんなにお金持ちになっても、一緒の夢を見る機械なんて買わないで。わたしはあの日に知ってしまった。夢のなかのわたしは、わたしによく似たまったく別のだれかで、彼女は彼女の世界を、決してわたしに譲ることはない。日々に執拗に刻まれる眠りのくさびを忘れることで、わたしはようやくひとつのわたしでいられるのだから、あなたはここにいるわたしだけを見ていて。夢の鍵を開けて、あなたではないあなたで、わたしではないわたしに会いに行かないで。
 遠くの高架下の暗がりから妹が、泣きじゃくるわたしを見ている。わたしはシンジに強くすがりつく。今夜もわたしは夢を見て、それは数十日後に口座の数字に化けるのだろう。お金のために売られた妹は、わたしを恨んでいるだろうか。
 欲張りな姉であるわたしは、泣き疲れ、優しい恋人とともに、夢のない眠りにつく。

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